十三
文造が帳簿部屋に行くと、新吉が卓についていた。
「これ、おまえはここでなにをしておるのだ」
文造が眉をひそめる。
「なにといって、見ての通り帳簿でございます」
「なぜおまえが帳簿をさわっておる、と訊いているんだ。おまえはもう浜門屋とはなんの係わりもないはずだろう」
「とは申しまして、御上のお言いつけとはいえど、もう数日はお世話になる身、ささやかなお礼でございます」
「冗談じゃない、おまえはなにもしてくれないのがなによりの礼だよ。どいたどいた、手代部屋を使っていいから、そこにひきこもって出てこないどくれ」
帳簿の新吉がいじっておかしくなったところを直してから店のおもてに向かうと、とちゅうで昨日の岡っ引に行きあった。色吉とかいうやつだ。
「親分さん、こんなところ――店のなかまで入り込んでなにをなすってるんです」
「へい、ちょっと……。いやしかしお嬢さんが亡くなったばかりというのにお店を開けて、たいへんでやすね」
「そりゃ商売でございますからね。生き馬の目を抜く当世、休んではいられません。主人は喪に服しているし、女中と手代、丁稚の何人かは葬儀の支度にまわしておりますよ。それで親分さん、なんの用でございますか」
「ええ、用があるのは番頭さんでなく、もと手代の新吉さんでやすがね。しばらくここにいるように言っといたんですが、どこへいるのやら。いないのなら番頭さんにでも話を聞かしていただきやしょうか」
岡っ引はきょろきょろと新吉を探すふりまでする。
「あいにくいま言った通り人手もとられて、猫の手も借りたいようなほどでしてな」
文造は手早く懐紙に銭を包んで色吉に渡した。
「こいつはどうも。そうそう、昨日いた太助親分ね、あいつは今日は別件で来られねえが、番頭さんやこの店のことをずいぶんと気にかけてやしたよ」
なんと図々しいやつらだ。番頭は苦い顔が表に出ないよう気をつけながら、もうひとつ包んだ。
「こちら、太助親分さんに」
「こりゃあ気を遣っていただいて、あの野郎も喜ぶでしょう。あ、そうそう、太助親分には子分が二人おりやして、卒太と根吉ってんですが、こちらのお店にはまだ顔を出してこそいやせんが、こんどの件、たいへん心配して、ほうぼう調べに駆けまわってるところなんでやすがね」
「まだいるんですか」
しかたなくもうふたつ小銭を包む。もはや不満とあきれが顔に出てしまっていたが、番頭は気にしないことにした。
「新吉のやつならば、手代部屋にいるはずですよ」
やっと小者を追い払うと、文造はほとんど小走りに、家屋を出て庭を手代部屋の裏に回った。聞き耳を立てると、ちょうど岡っ引が座敷に入ってきたところのようだった。
がらりと襖が開いて、昨日の小者が顔を覗かせたとき、肘枕で寝転がっていた新吉は驚いて体を起こした。
「なんです、声ぐらいかけてくださいな」
「ああ、こりゃすいやせん、手代部屋ってのはここだったんですか。あんたを探してたんだが、いるとは思わなかったんでね」
と、わけのわからないことを言いながら小者は図々しく部屋に入り込んでくる。
「あたしに用とは、なんでしょう」
新吉はそのまま起きあがると、そこに坐した。座布団もありませんが、と色吉に座るよううながす。
「いや、たいしたことじゃあござんせん。もいっぺんだけ、確かめときたいことがござんして。昨日訊けばよかったようなものですが、面目ねえ、そんときゃわからなかったんだが、昨日夜寝床に入ってからつらつらと考えていて、思いついたもんですからね」
「ええ、だからなんでしょう」
それこそつらつらと余計なことばかり言う色吉に、つい口調がきつくなる。
「へい、じゃあ単刀直入に言いやしょう。あんた昨日、お嬢さんと好きあっていると言ってましたね。ところが店のだれに聞いてもあんたとお嬢さんが好きあってるだなんて言ってる人はいないんで」
「そんなことですか。そりゃあお嬢さんとの逢いびきはこっそりとやっておりましたから、それはそうでしょう。なぜかというと、お嬢さんは番頭さんを婿に取ると旦那様がお決めになっていたからです。だから旦那様に知れたらあたしはすぐにでも店を追いだされていたでしょうから、内緒にしていたってわけです。そのうち折を見て、旦那様にはあたしを婿にしていただけないか、お嬢さんからかあたしからかは決めておりませんでしたが、話すつもりでおりました」
「なるほど、そういうわけでしたか。もう一度念を押しますが、それは誓って間違いのないことでやしょうね」
「ええ、誓って間違いございません」
小者は満足げにうなずいた。
「しかしね、お店のひとたちの話じゃあ、おとつい呉服屋が来たときには、お嬢さんたいへんお喜びになって結納と祝言をずいぶんと楽しみにしてた、ってことなんですがね。こいつは聞く人聞く人みんながみんな口をそろえてるから嘘だとも思えない。あんたの言うこともほんとだとすると、お嬢さんちかごろ心変わりされた、ってことなんじゃないでしょうかねえ。あんた、それに気づいてましたか」
「そんな、そんなことはありません。きっと、お千代は駆け落ちの約束を悟られぬようお芝居をしておったのでしょう」
「なるほど、お嬢さんはするとずいぶんとお芝居がお上手だったのでしょうね」
岡っ引はぼんやりとした顔をして、なにか他のことに気をとられているようにもみえる。
「でもそうお芝居がうまいとなると、逆にあんたに惚れたふりをしてた、ってこともありませんかい」
と、唐突にするどく新吉を見た。かと思うとすぐに相好を崩し、
「はっは、まあそこまで考えると話がややこしくなりすぎるからひとつ置いとくとして、あんた昨日、番頭さんがお嬢さんとあんたの仲に気がついて、それでお嬢さんを殺めた、と言ってましたねえ」
「そうじゃないか、っていうただのあたしの見当です」
色吉はうなずく。
「でもねえ、そうなるとお嬢さんがそうやってせっかくうまいお芝居をしてたっていうのに、なんで番頭さんはあんたがたが駆け落ちをすると気がついたんでしょうね?」
新吉はぎくりとしたが、表に出さないようこらえていた。
「そ、それは……さて、どうしてでございましょうね。番頭さんご本人に聞かれたほうが、よございましょう」
「はあ、番頭さんにですか。番頭さんに、どうしてあんた、新吉さんとお千代さんが駆け落ちしようとしていることがわかって、あげくお嬢さんを絞めなさったんですかい、とこうですかい」
色吉はにやりとした。
「でもこいつはただのあんたの見当だと、お手前がついいましがたおっしゃったばかりじゃござんせんか」
「ああ、そうでしたね……あたしとしては、それがほんとだと思ってるもんだから、ついごっちゃになりました……」
「しっかりしてくだせえ、そう思ってるならば、番頭さんが気づいた理由についてもひとつ知恵をしぼってもらわねえと」
新吉は懸命に考えたが、うまい説明を思いつかなかった。脂汗が流れる。
「手代さん……いやさ、新吉さん、どっか具合でも悪いんですかい、今日はずいぶん涼しいのに、ひでえ汗だ」
にやにやと岡っ引が厭味ったらしく言う。新吉が、ああもう捕まるかもしれない、と天を仰ぎそうになったそのとき、新吉にとっては救いとなる大音声が響いた。
「てめえこんなとこにいやがったか」
座敷に入ってきたのはこれもひと目で岡っ引とわかる中年の男だった。
「あんたは……馬道の……親分」
「武佐蔵だよ。てめえ昨日はよくもやってくれたな」
「なんのことでやしょう」
「とぼけんじゃねえ、てめえんとこの根吉が俺の子分の日出助の邪魔をしやがって、宇井野様の検死のご出馬が遅くなったじゃあねえか」
「いや、根吉はあっしじゃなくて太助の子分だし、そもそも日出助の邪魔をしたのは卒太で……あわわ」
「てめえ語るに落ちやがったな、やっぱり邪魔したんじゃねえかこの野郎」
「ち、よしんば卒太が日出助の邪魔をしたとして、そいつがなにか差し支えがありやすかい。ご承知の通り、ここいらはあっしらの縄張りでやすからねぃ」
「てめえこの野郎開き直ってんじゃねえ、結果的に宇井野様のお勤めが遅れたんでえ、差し支えあるに決まってんだろうが。ここじゃなんだ、こっちに来やがれ」
武佐蔵は色吉の襟首をつかんで座敷を出ていった。
「親分、猫じゃねえんだ、やめてくれよ、おとなしく付いてくから」
とりあえず助かったが、このままでは捕縛されるのも時間の問題だ。早いうちに――もう今夜にでも逃げだしたほうがいいかもしれない。




