さとり再々々現
秋も終わりにさしかかり、ときどきは冬のように寒い日もあるころのこと。
その日も昼から空っ風が吹き荒れ、道を行くのはどうしてもの用事のあるひとたちだけ、そんな彼らも身を縮めて足早に過ぎていく。
夕闇の迫るこの時分には、往来にはひとけもほとんど絶えていた。
「夕方になりゃすこしはおさまると思ったが」
色吉は番所に向かっていた。風が冷たいから、やはり小走りに近いかたちになる。昼間はそれでも天気のからりと良いのが救いだったが、だんだん空気も湿ってくると、つれて寒さもいっそうひとしおになってくる。
「またくさめを、自分の思いもよらずするかもしれないな」
いつのまにか黒い長い体毛をまとった猿みたような化け物が色吉と並んで走っていた。
「いまおまえは、またおまえか、と思ったな」
いつかのときと同様に、色吉は足をとめなかった。
「しかしいつかのときとは反対に進んでいるな。いつかのときは旦那の家に向かっていたのが、今日はその家を出て奉行所に向かっておるというわけか」
これもいつかのときと同様、色吉は話に乗らなかった。そしていつかのときと同様、周りに人影は消え、通りに並ぶ店も戸を閉め切っていた。
「おまえはいま、茶を飲みたい、茶を飲みたい、と考えているな。わたしに覚られてもいいように、どうでもよいようなことを必死に考えているな……茶を飲んで小便をたっぷりしたい、だと? 汚いことを考えるな」
「だったらおれにつきまとうんじゃねえ!」
思わずサトリのほうを向いてしまい、色吉は「いけねえ」とまた顔をまえに向けて一身に足を進めた。
「おまえはいま、早いところ旦那のところにいって、このわたしをやっつけてもらおう、と思ったな。いつだかのときも同じことを考えていたな。よほど頼りにしているようだが、無駄なことだ」
サトリは猿のごときすばやさで色吉のゆくてに廻りこんだ。思わず足をとめ、どちらにいこうか、と視線を左右にふった。
「おまえはいま、右を見ながら左にいこうと思ったな」
色吉は凍りついた。
「焚き火もない、雨も降っていない、舟にも乗っていない、こんな日を待っていたのよ。くさめはするかもしれないが、今日はそんなていどで驚かぬぞ」
足が震えてくる。
「おまえの旦那というのも、あとで取って喰ってやろう」
サトリの妖怪が一歩、色吉に近づいた。
「おまえを取って喰ったあとでな!」
猿のごとき身も軽く跳びあがって、大きな口を開けて色吉に近づいてきた。大きく開けた口のなかに乱杭歯が生え、ねちゃねちゃとした涎がからまっている。
こりゃあいけねえ、今日ばっかりはなにも起こらねえ。
色吉が観念しかかったそのとき、サトリの姿が色吉の目のまえからかき消えた。と思ったらべちょりと音がし、ぐえっと悲鳴がし、その黒い猿のような妖怪は色吉の目のまえの地べたにたたきつけられていたのだった。
「旦那!」
すぐそばに立っていたのはいかにも北町同心羽生多大有だった。いつもの旦那で、ただ突っ立っているようにしか見えない。
「ふん、きさまが旦那か。よくこのわたしを抑えることができたな。この間抜けに跳びかかるのに夢中で気がつかなかったとはいえ、たいしたものだとほめてやろう。こんなやつよりおまえのほうが手強そうだ。前言撤回、まずおまえから取って喰ってやろう」
サトリはむくりと起きあがり、羽生のほうに向いた。
「いまおまえは、竹が爆ぜるのやくさめなんどで退散したくせに、地べたにたたきつけられてよく逃げないな、と思ったな? ……ん? 待て、なぜそんなことを知っているのだ」
「いや、そいつはおれが考えたことだ」
色吉が言った。
「きさま、まだそんなところにいたのか。これな好機、とっとと退散したらどうだ」
サトリが振り返る。
「おまえはいま、そいつは渡りに舟だ、と考えたな。おまえなどこいつを取って喰ったあとですぐにまた捕まえてやる」
色吉は逃げだした。余計なことを考えて、旦那の不利になってもいけねえ、とうまい言い訳を思いついたからだ。
「せいぜいできるだけ遠くまで逃げることだ」
色吉の背に向かってそう言い、サトリは再び多大有に向き直った。
「おまえはいま――」
羽生はそこにじっとたたずんでいた。微動だにしない。
「――」
もちろんしゃべりもしない。
「――」
ただ、そこにいるだけだった。
「――」
サトリの顔色が変わったようだったが、地も黒いうえに黒い体毛に覆われていてよくは見えない。
「――」
多大有がぎい、と腕をあげ、籠手をまとった拳を見せつけるようにまえに出した。
「――なにも考えてないな」
多大有は首を横に振ると、弓を引きしぼるように拳をうしろに引いた。
「だがわしを殴ろうとしていることはわかるぞ」
多大有はうなずいた。
「人間というものは、思っていないことをするものだ」
殴られるよりまえに、サトリはひょこひょこと逃げだした。
〈了〉




