一
お千代は足音をひそませて、猫足歩きで暗い廊下を歩いた。冬の短い日はとっくに暮れてそれからたっぷり二刻ばかりは経ったころのことだ。
裏口への戸を音をたてないようにそっと開ける。今宵は十三夜、月明りは充分……どころか明るすぎるくらいだ。家屋と塀のあいだを抜けて、裏庭の天神様を祀った小さな祠の背後、松の木に背をもたせて人待ち顔になる。
「お嬢さん」
ひそめたその声に、やや憂い顔だったのが、ぱっと笑顔で振り返った。
「新吉」
……
ひとしきり語りあったのち、新吉が、
「お嬢さん、そろそろ遅いから……」
と戻ることをうながす。
「新吉、いつになったらあんた、お父さんに話してくれるつもりなんだえ」
「いや、お嬢さん、そいつは……」
新吉は困惑する。
「もうこんなこそこそと会うのは飽き飽きだ。あんただってそうだろう」
「それはもちろんそうですが、でもお嬢さんだって旦那様の厳しいのはご存じでしょう」
「そりゃあそうだけどさ」
「どうでしょうか、お嬢さんのほうからひとつ」
新吉はうわ目遣いに千代を見てくる。まったく、意気地のないことだ。千代はそんな新吉にはがゆい思いを抱いている。かといって、厳格な父を恐れてもいるのだった。
「なにしろお嬢さんには、旦那様の決めた許婚がおありだ。番頭さんを差し置いてあたしなんかが口を出すなんて、旦那様のお怒りに触れてしまう」
黙ってしまった千代に、新吉が畳みかける。
「文造なんて、あんなおじさんの不細工はごめんだよ。おじさんのうえに、あんな小さな男……あたしよりも小さい、並んで歩いただけでみっともない、考えただけで寒気がするよ――」
たしかに文造はかなり小柄だ。それに対して新吉が大柄で、見栄えのするところも千代の気に入ったところなのであろう。
「――堪忍しておくれ。あんなのと所帯もつくらいなら、いっそのこと、駆け落ちでもしちまうかい」
「お、お嬢さん。あたしのことをそこまで……」
新吉は感激して千代に抱きついた。千代はうれしい一方、子供のように抱きついてくるのではなく、抱きしめてほしいんだけどねえ、などと考える。
「まあ、今日はもう遅いから、とりあえず戻るとしようよ」
千代と新吉は来たときと同じように、あいだを開けて家屋のなかへ戻っていった。
翌朝、部屋の掃除に来た女中が、旦那様――すなわち千代の父――が呼んでいると伝えてきたので、当主の間に行くと、先客として番頭の文造が父の忠兵衛と相対していた。嫌な予感がした。
「おお、千代。ここに座りなさい」
忠兵衛は今朝は機嫌がよいようだ。千代を文造と自分のまえに並ばせる。
「千代ももう十八、この浜門屋の跡取りとして、そろそろいいかげん、婿を迎えてもらわねばならん」
千代は文造を横目でちらりとうかがい、文造がこちらを向いて笑ったらしいのを察してあわてて目をまえに戻した。
「でも、あたしまだ――」
おじさんの醜男が笑いかけてきたことに、ぞくぞくと嫌悪する。
「おまえはこれまでもまだ早い早いと言い続けてきたが、そしてその通りに甘やかしてきたわたしも悪かったが、もういいかげん歳を考えなさい。来年は厄年だ、今年を逃したら今度は再来年まで待つことになる。いやいや、それは許さないよ、なんとしても今年じゅうに祝言をあげてもらう。いや、そもそも今日おまえたちを呼んだのは、その日取りを伝えるためなのだ」
「え――」
思わず顔を文造に向けてしまう。番頭はずっとこちらを見ていたらしく目が合ってしまい、またもや慌てて顔を戻したが、まるで露骨に顔をそむけたみたいになった。いや、実際のところ露骨に顔をそむけたのだが。
しかし文造は幸せな男なのか、千代が照れて目をそらしたと受けとって、その様子を愛おしく思ったようだった。
「もう十月も半ばだ。来月十日に結納を取りかわし、再来月師走のやはり十日に祝言ということにした。その心づもりでおりなさい。さがってよい」
忠兵衛は一方的に言い、それでこの会合は終わりだった。
「お嬢さん」
忠兵衛の部屋を出たところで文造が声をかけてくる。
「番頭さん、あたしのことなんかいいから、今はお仕事に戻ってくださいな」
ぴしりと言って、話しかける隙を与えず足早に自分の間に戻った。
しばらく待ってから、ふたたび忠兵衛に会うため仕事間に行った。
「お父上」
算盤をはじいていた忠兵衛が顔をあげる。
「なんだ」
襖を開けて、千代が手をついて辞儀をした。
「入りなさい」
忠兵衛としては聞き忘れたことでもあったのだろうというくらいの心持ちだった。だから千代が文造との婚儀に難を唱えるのを聞いて腹を立てた。
「おまえ、以前からずっと言ってあっただろう。いまさらなにを言いだすのだ」
「だって、番頭さんなんか、歳だって離れているし……」
「文造は浜門屋のために丁稚のときから働きづめだったために、婚期を逃してしまったのだ。だから、おまえをやるのはそれに対する詫びの意味もあるのだ。彼奴があとを継いでくれれば、この浜門屋も安泰だ。おまえにいったいなんの不満があるというのだ」
「おじさんじゃないの」
「だから頼りになるというのに。ならばいったい、だれが浜門屋の婿としてふさわしいというのだ」
「手代の……新吉とか」
「新吉! はっ、おまえに商売を見る目などない。あやつが浜門屋をついだとしたら、三年と待たずつぶれてしまうわ。論外」
「でも」
「新吉に腕があるとでも言いたいのか。年期の長さでお情けで手代にしてやったような奴だぞ。まだ丁稚にあれよりも見込みのあるのがわんさといるわ」
「そんな」
「おまえはわたしの言う通りしていればよい、女子が余計なことを考えなくてもよいのだ」
当主のお墨付きを得た格好で、番頭がしきりに話しかけてくる。これまでは事務的な用事のあるときのみ千代のまえに現れて、目もあわさずに手早く用件だけを話し、返事も待たずに去っていくような男だったのだが。
「お嬢様……いや、お千代。これからはお千代と呼ばせてもらうよ」
お嬢様、と話しかけられるたびに逃げまわっていた千代をとうとうつかまえて、こんなことを言う。あまりのことに虫唾が走り、千代は固まってしまった。
「祝言はまだだが、もうわたしたちは夫婦も同然だ。これからはおまえにも協力してもらって、いっしょに浜門屋を盛りたてていこうじゃないかい」
ぞっとするとともに、嫌な汗が出てきた。
「あ、番頭さん、あたし、なんだか悪寒がする。悪いけどちょっと休ませてもらうよ」
千代はふらふらよたよたと自分の部屋に戻った。悪寒がするというのはほんとうだったのだ。その青ざめようと危ない足つきを見て、文造は、
「ああ、それはいけない、すぐ医者を呼びにやらせよう」
と言った。
「そんな大げさな。騒ぎたてるようなものでもないのよ」
しかし文造の不満げな顔つきを目にして、おとなしく従うことにした。
「特に悪いところはございませんな。ただの疲労でしょう」
案の定、医者はそう言って帰っていった。それから文造が入ってきたので、女の部屋に入ってくるなと文句を言うと、
「だが、もうわたしたちは夫婦も同然じゃあないか」
と繰り返したので千代はまたもやぞっとしてしまった。
「疲れてるの、ゆっくり寝かせてちょうだい」
横を向いて布団をかぶると、ようやくあきらめて部屋を出ていったが、出ていきざまにぶつぶつと小さな声で、
「しかし疲れるようなことなんか、お嬢様はなさっていないはずですがねえ」
などと聞こえたので、千代は本当に気絶しそうになった。あんたが疲れさせてるんでしょ!
手代部屋のまえを通ると、安煙草の不快な臭いがした。文造は顔をしかめ、声もかけず襖をがらりと開けた。
新吉が首をすくめ、吸っていた煙管を背中に隠して愛想笑いをする。
「おまえはまたこんなところでなまけて」
「これは番頭さん、いえ別にちょいとひと休みしただけなんで、もう戻ります」
新吉は開き直って煙管を火鉢にかんかんと叩きつけると、立ちあがって店のほうに去っていった。
番頭は苦い顔だ。と、いままで新吉の座っていた畳のうえに煙草入れが落ちていた。文造は嘆息した。あの手代はしょっちゅう、いろいろなところにいろいろなものを置き忘れるのだ。




