四
武佐蔵が目を丸くし、口を開いた。
「てめえこの野郎、い――」
まずい、こんなところでこいつに大声など出されてはご隠居に気づかれる、と思ったときには武佐蔵の姿はかき消えていた。
「旦那、ありがとうございやす……」
色吉はつぶやいて、歩兵衛の追跡に戻った。
「――ろきちこんなところでなにやってやがる、また縄張り荒らおいここぁどこだ」
御蔵前の通りにいたはずの武佐蔵は自分が大川沿いの河岸にいることに気がついた。
「はて、こいつが神隠しか。にしては妙に近いところに出てきたもんだ」
武佐蔵の言う通り、さっきの場所から一町とは離れていないはずだ。
「ああ、馬道の親分、いいところに。子供が溺れてるんで、助けてくだせえ」
町人が声をかけてきた。川を見ると確かに子供が溺れている。岸からはほんの五、六間だが、ずいぶんと遠くに見える。
「莫迦野郎、こちとら江戸っ子でえ、泳げるわけねえだろう」
「なんでえそれでも御上の御用聞か」
「ふざけんな、おめえは親か、なんで子供が溺れてるんでえ」
船上から櫂を子供にさしだしている屋根船もあったが、当の子供はじたばたと手足を動かして沈まぬことに夢中でそれをつかむどころではない。
「ちょっと目を離したすきに自分で飛びこんじまったんだ、なんとかしてくれ親分」
「都合のいいときだけ親分親分っておめえ、親ならてめえで助けやがれ」
「てやんでえ、こっちだって江戸っ子だ、泳げるわけねえっておめえさんも言ってたろうが」
とそのときざんぶと水のはねる音がして、見ると飛び込んだ男が見事な泳ぎで子供をつかまえて岸に戻ってきた。
「てめえ色吉こんなところでなにやってやがる、また縄張り荒らしかこの野郎」
子供を助けた男、色吉は子供に水を吐かせている。
「いまそんな場合じゃないだろう親分、ほれ、縄張りだから子供は返すぜ」
色吉は子供を抱えて武佐蔵に手渡した。
「じゃあ急いでるんでこれで」
手早く衣服をまとうと色吉は河岸を駆けだした。
「てめえ待ちやがれ、泳げるなんざぁ江戸っ子の風上にも置けねえ野郎だ」
武佐蔵は色吉に追いすがろうとしたが、うしろから羽交い絞めにされた。
「おっと親分、子供を返してもらうぜ」
町人は子供を取り返すと、勢いあまって武佐蔵を突き転ばす格好になった。
「てめえこの野郎、御用の邪魔だてをしやがるたあ、お縄にしてやる」
すると野次馬から声があがった。
「なんだいエ、あんたが子供をさらおうとしたんじゃないか」
「そうだよ、初めは見捨てようとしたくせにさ」
「それに比べていまの親分の気風のいいこと、ほれぼれしちまうね」
「礼も言わせず去っていったね」
口々に言う。
「さらうとは人聞きの悪いことを言うんじゃねえ、俺はあの色吉の野郎に押しつけられた餓鬼を持ってただけじゃねえか、なんならてめえらまとめてしょっぴくぞ」
武佐蔵も負けじと言い返す。
「なんだって、やれるもんならやってみな、こんだけの人数を相手にしようってならね」
野次馬の女が言った。
「めんどくせえ、簀巻にでもして放りこんじまうか」
野次馬のなかからボツりというのが聞こえた。
「なんだと、いま言ったのは誰でえ」
武佐蔵は強がったが、顔からは血の気が引いていた。
「本当に知りたいかえ」
「知っちまったらそいつは冥土の土産になるぜ」
さっきとは違う声が口々に言った。
武佐蔵はもっと青くなった。
「そんなに知りたけりゃ教えてやろう――」
さらに違う声が言ったところで武佐蔵は、
「ちっ、今日はこのへんにしといてやらあ」
と色吉の行ったほうに駆けだしかけたが、足を引っかけられて前のめりに転がった。
「畜生、だれでえ」
「知りてえか、なら教えてやろう――」
野次馬からまた声がしたので、武佐蔵は今度はものも言わずに、さっきの色吉とは反対のほうに這うように逃げだした。野次馬たちのあざけるような笑いを気にしている余裕はなかった。




