三
どんどんと長屋の戸を叩く。
「お良さん、おれだ、隣の隣の卒太だよ、いるんだろ、出てきてくれねえなら、開けるぜ」
がらりと開いて、不機嫌な顔が現れた。
卒太のうしろには、長屋のご新造連中が控えていた。
「なあ、ここの人たちもよ、まあ迷惑してるってえのはもちろんあるんだけどよ、だがあんたたちを追いだしてえわけじゃあないんだ。むしろあんたらが追いだされちまったら気の毒だってんで、こうして大家にも言わずきたってことよ。なあどうだい、お経だか念仏だか知らねえが、あげるんならせめてこういう昼間にやって、夜中に騒ぐのはよしにしてくんねえか」
大家が注意したにもかかわらず、その夜にもまたお良の部屋から不気味な呪文が聞こえてきたのだ。しかも大家の言いつけにわざと抗うかのように、さらに大声で、まえよりも長いこと、それは続いたのだった。
そして卒太は長屋のほかの住人に背中を押されてお良に意見しに来たのだった。
「祝詞」
お久はあいかわらず不機嫌な仏頂面だ。
「ああ、祝詞をあげるんなら昼間に――」
「あんただけ入んな」
入るといっても土間に腰掛けるだけだ。奥にはみすぼらしい衝立があり、爺さんはその向こうで寝ているのだろう。お香の強いかおりが部屋中に満ちていたが、それでも抑えきれない異臭がときどきにおった。
戸を閉めると、婆さんは声を落とした。
「あんた、親分の金をくすねてるだろう、それももう一両近くも」
卒太の顔を穴の開くほど見ている。
「そ、そりゃ博奕に勝ったらす、すぐに返すつもりで……」
背中に寒いものが走るのを感じながら卒太が言った。
「そんなことはあたしでなく、親分にでも言いな」
なぜか青ざめた顔で出てきた卒太は、「どうだった?」「きちんと言ってやったかい?」口々に迫るかみさん連中のひとりを指して、
「つぎ、おりんさんひとりで入ってくれとよ」
と言ったかと思うと、ふらふらと長屋を出ていってしまった。
「なんだいありゃあ」
と言いながらお良の部屋に入ったおりんも、しばらくすると青い顔で出てきて、つぎのおかみさんを指名して自分の屋にもどった。
「あんた、夜あたしがうるさい、迷惑と言うけれど、あんた亭主が出かけてる晩は、あんたも出かけてるじゃないか。三島町の為さんとこか、そりゃあ近所だけど、だからってそこまで聞こえて迷惑かい?」
「あんた、旦那さんに隠れて借金があるだろう。頼母子講で借金とは感心しないね」
残ったおかみさんたちも同じように、つぎつぎに青い顔をして出てきては去っていった。
「てなわけで、その日はみんなあきらめたんでやすが、夜になるとやっぱりすげえ念仏で」
「祝詞だろ」
「へえ、大音声の祝詞で、住民ももうこうなったらしょうがねえ、ってんで大家に言いつけました」
大家も、自分の言いつけがその日のうちにも破られ、さらに翌日も、となるともう容赦ならぬとばかりにお良則兵衛に退去を言い渡しにいった。
「ところがでやす」
やはり大家も、青い顔をして長屋から出てくると、そのまま長屋の者たちになにも告げずふらふらと歩き去ろうとした。
「どうでやしたか」
大家は卒太を振り返ると、
「うん。もうしばらくはいてもらうことにしたよ。やはり年寄り夫婦でひとりは寝たきりだ、追いだすのは忍びないからね」
そうどこか気の抜けた声で答えると、首をすくめて家に帰ってしまった。
「大家もなんか隠しごとを言い当てられたんだろうな。なにか聞いたかえ」
「いや、そいつはまだなんで。気の利かねえことですいやせん」
頭をさげる卒太に、色吉は手を振った。
「いちおう尋ねてみたまでだ。おかみさんの二、三人から聞きだしただけでもたいしたもんだよ」
お世辞抜きに感心していた。卒太にしろ根吉にしろ、聞き込みがうまいのは確かだった。ころころと太った外見が、安心感をあたえるのかもしれない。
夜も早いうちは、まだお良も寝ている。夜中を過ぎたころ、ごそごそと起きだして祝詞を詠みはじめるのだ。
しかしこの日、まだ起きだすのにあと一刻もあろうかという時分、お良は闇のなかで目を開いた。
「おりんさんかえ」
戸を開けて入ってきた影が、びくりと止まった。
「そりゃわかるわえ、その戸を音立てずに開け閉めすんのは無理だ」
影が近づいてきて、暗いなかぼんやりと浮かびあがったのは、はたせるかなおりんであった。手に持った刃物を構える。
「あんたも意外に剣呑なんだねえ」




