二
それからひと月ほども経った昼間、色吉は同心羽生多大有の町廻りの供について神田の目抜き通り、人混みのなかを歩いていた。うっとうしい雨の続く合間の、よく晴れた日だった。
「色吉の親分」
振り返ると卒太が立っている。
「いいとこに来てくれやした」
「なんかあったのかえ」
「こないだ話した婆ア、あいつが暴れてやして」
思いだすのにしばしかかった。そういえばだいぶまえにそんな話をした覚えがあった。
「婆アが暴れたところでどうだってんだ。たかが婆アだろうが」
とにかく見にいくことにして、色吉は多大有に一礼すると卒太とともに長屋に向かった。
「なんだぎゃあーそう、あたじゃあーらあんだらーだめにゃあでんで」
なるほど年寄りの女が声を張りあげて中年の男とやりあっている。あれが婆アか。
長屋の表で、往来をゆく人たちは横目に見ながら、あるいはまったく気にせず通り過ぎていくが、暇な通りすがりか近所の住民なのか、何人かは遠巻きに眺めている。
「だがねえお良さん、このところじゃあ、隣や、その隣の長屋からも苦情が来てね。おまえさん、まえより声が大きくなってねえか。お経を詠むにしても、せめてまえんときくらいの声で――」
「大家なんで」
卒太が中年の恰幅のよい男を目で指しながら言った。
「あんだぎゃーごえぎごえんがっだあぎがんでじゃあが」
婆さんはもはやなにを言っているのかわからない。大家とのあいだには盥が置いてあり、洗濯板と汚れものが入っていた。
「年寄ったら元気がなくなるもんじゃないのかね。そう思ってたが、あんたの場合、耳が遠くなったもんで声が大きくなっちまったのか」
婆さんが、また大きな声でなにか反論したが、もう色吉たちにはなにを言っているのかわからなかった。
「そうこっちの言ってることがわからないようじゃ、もう出てってもらうしかないかもしれないよ」
すると婆さんはさらに大声でなにかわめいたが、そのとき長屋の木戸のほうから声がした。
「ばあさんや、あまりよそ様にご迷惑かけるんじゃないよ」
弱弱しいかすれ声だった。木戸の根元のところに顔を覗かせて、どうやら這いつくばってきたようだ。皺くちゃの年寄りで、これが寝たきりの爺イなのだろう。
婆さんはわやわやと大声で応え、爺さんはうんうんとうなずきながら聞いていた。
大家は、
「じゃあ頼んだよ、伝えたからね。もう騒がないようにね、こんど苦情が来たら、わかってるね。さあ、則さんも部屋にお戻り」
と言い残して去っていった。
「ちいとすまねえ、ちいとだけ話を聞かしてくんなさい。おれは御上の御用を聞く、色吉ってもんだ」
色吉がそう声をかけると、盥に向かっていた婆さんが顔をあげた。
「洗濯のじゃまじゃ」
さっきよりは治まったものの、それでもまだ大きな声で言い、ずるずると長屋に戻りかけていた爺さんが驚いたのか振り返った。
「おっと、部屋まで送りやしょう。お婆さんは忙しいようだから、旦那さん、話を聞かしてくんなせえ」
色吉は爺さんに近寄った。
「あんた、爺さんに構いなや。しかたない、わしが話を聞いたる」
婆さんが口をはさんだ。
「だけど、這ってばかりじゃ泥だらけだぜ。支えてやりゃ歩けるんじゃないかな。そうだ、卒太さんよ、じいさんを送ってやってくれ」
「合点でさ」
卒太が爺さんの腕を取ろうとすると、婆さんがなにか叫んで立ちあがった。
「余計なことをすんな、爺さんに構いな。どうせもうとっくに泥だらけだ」
そして卒太の腕をつかんで強引に引き戻した。
「痛え、なんつう馬鹿力だ」
卒太が驚いた顔で婆さんを見直した。
婆さんはそのまま盥のまえに座り、つかまれたままの卒太も婆さんの横にしゃがみ込むことになった。
気をとられているうちに、爺さんの姿ももう消えていたので、色吉も婆さんのまえにしゃがんだ。
「なあ、あんた。名前を聞かしてもらってもいいかい」
婆さんはがしがしと板に汚れ物をこすりつけている。
「よし」
「お良さんだな。爺さんはなんて名だえ」
「そくべえ」
「則兵衛さんか。なあお良さん、あんたなんで夜中に大声でお経をあげるんだえ」
「お経じゃあねえ、祝詞だよ」
「そうかい、そりゃ失礼。なあお良さん、あんたなんで夜中に大声で祝詞をあげるんだえ」
「大きなお世話だよ」
婆さんは洗い物をがしがしと板にこすりながら答える。
「そりゃあそうだ。そりゃあそうなんだが、ご近所さんの迷惑ってもんも考えねえと」
婆さんがきっ、と顔をあげた。
「あたしがうるさいってのかい」と大声で言った。
「まあまあ、おれもいっぺん聞いたことがあるが、ありゃ夜中に聞かしていいもんじゃあねえと思ったぜ」
「そうだよ、ここんとこ毎晩だ。ちったあ隣近所のことも考えてくんなよ」
卒太が口をはさむと、婆さんは今度はそっちをにらんだ。
「あんたはなんだ、よく夜中に鍵をはずして出てくだろう、あれだって迷惑なんだ」
「いや、あれぁ捕り物なんかで、だから、御上の御用なんでい」
思わぬ反撃にしどろもどろになった卒太だが、御用ならもっと堂々としていいのに声も小さい。どうせ実のところは博奕や遊びで出かけるのだろう。婆さんが畳みかける。
「それにあんた、部屋にいるかと思やあひとりでやってるだろう、あれだって迷惑だよ」
卒太が顔を赤くした。
「こ、殺すぞこの婆ア」
「おいおい、お縄にすんぞ。落ち着きやがれ」
色吉が苦笑する。お良はそんな色吉に、
「あんただってまだ年端もいかない女の子に惚れてんだろう、権現様の時代じゃあるまいに、気持ち悪い、迷惑だよ」
と矛先を向けた。
「なんだとこの婆ア」
「まあまあ、親分も抑えて抑えて。いったん退散しやしょう」
「夜中に大声出すなって単純なはなしじゃねえか、そんくれえなぜできねえ」
卒太に押されてその場を離れながら色吉はわめいた。卒太がにやにやしているのも気に食わなかった。




