一
色吉と太助、根吉は卒太の長屋にあがりこみ、つらつらとだべっていた。
梅雨入りまえの、寒からず暑からず、その日も昼間はからりと晴れあがった日の夜のことだ。
太助と子分のふたりがよく呑むのはいつものこと、色吉もつきあいでほんの少し、それでももう頬を紅くしていた。
「――で、昔ばなしみてえにそう言ってバケモンは逃げてったのよ」
「マジですかい」
「嘘でがしょう」
「それじゃあ、まるで昔ばなしに聞いた通りじゃあねえか」
色吉が話しおわると、太助たちは笑った。
「だからそう言っただろうが」
どんどん、と壁を叩く音とともに、
「ちょいと卒太さん、騒がしいよ」
隣の部屋から文句がとんできた。
つい声が大きくなってしまったようだ。色吉たちはまたぼそぼそと小声に戻った。
「おめえ最近、すっかり妖怪づいているみたいじゃねえか。魅入られてるな、完全に」
「縁起でもねえ、やめてくれ」
色吉は嫌な顔をする。
「おいおい、ほんとにびびっちまったのかぁ!」
どんどん。
「ちったあ学べよ」
このところたいした事件もなく、引き合いも抜きようがなく金がないので、遊びにも出られず部屋でごろごろしているしかない。はなしの種も尽きたところで、四人はしばらく黙って酒をちびちびとやっていた。
「#§★γΘ∬Ŷ◎$χQ∀……」
念仏――というより呪文めいた低い、妙な声が響いてきた。この長屋の、どこかの部屋から聞こえてくるようだ。
「なんだこりゃ」
「なんか不気味だな」
「こいつにはどんどんやらねえのか、隣のオバハンは」
根吉と色吉と太助の三人はそろって卒太を見た。
「へい、それが、隣の隣に住んでる爺イと婆アなんですが、この婆アが毎晩、不気味なお経をあげてるんで。あっしが住みはじめてからこっち、ずっとでやす。あっしが住みはじめたってえのは、こうっと、もう十年にもなりやしょうか」
十年ほど前、それは太助の先代の簾蔵の手下になったころだが、卒太はこの神田鍋町の長屋に住みはじめた。
「というのもそんころに故郷から出てきやして、それというのも国で両親ともに亡くしたもんで、国ってのは磐州なんでやすが」
「へえ、おめえはそっちの出だったのかい。そういやあ、おいらぁ子分の身のうえ話なんざ聞いたことなかったなあ。そんで、磐州はどこの――」
「うん、太助の親分、そいつはまた今度にしよう。で、隣の爺婆のことなんだけどな」
「隣の隣でさあ」
「うん、隣の隣の爺婆が、どうしたんだ」
爺のほうはもうそのころからすでに寝たきりで、長屋のほかの住人に聞いたところではもう誰も覚えていないくらいまえからやはり寝たきりだったという。あるときなにかの話のついでに大家にも聞いてみたところ、大家が子供のころ、まだ先代の大家のときにもうすでに寝たきりだったとのことだった。
「なんだそりゃ、化け物かよ」
そしてその奇妙な念仏のような呪文のような地獄の底から響き渡るような声は、やはり卒太が来たときから毎晩夜中に聞こえてきていて、長屋のほかの住人によるともう誰も覚えていないほど以前からそうで、あるとき大家と話しているときになにかのついでに聞いたところでは大家の子供のころ、まだ先代の大家のときにもうすでにその念仏はしていたとのことだ。
「おいおい、そんころからもう爺婆だったとか言うなよ」
「それが、どうやらそうだったようで」
「こいつぁほんとに化け物だな」
「おいよせよ」
「化け物つう言葉だけでびびっちまうとは、あいかわらずだなあおめえも」
「おれは年寄りってだけで化け物呼ばわりは失礼だろうが、って言いてえんでえ」
太助はにやにやとしている。色吉は卒太に向かい、「それから?」と言った。
「そんだけです」
「そんだけ?」
「へい、つまり、もうこいつは長屋のもんたちはあきらめちまってるというか、そういうもんだ、って思って暮らしてやす。まあ小半刻もすりゃやむことはわかってるんで」
色吉たちが話していているあいだも、謎の呪文は低く抑揚をつけて続いている。節回しがお経とも祝詞とも異なるようで、呪文としか呼びようがない。
思いだしたように、卒太がつけくわえた。
「ごくたまに、新しく住みはじめた人が昼間に注意したりすることがあるんでやすが、そうすると婆ア、きちげえみたいにぎゃんぎゃんわめきたてるんで、なに言ってんだかさっぱりわからねえで、そのうち言っても無駄だってわかるのか、みんなあきらめちまうみてえでやす。まあ、そんなのもめったにあるこっちゃあなくて、何年かに一度あるかないかで、こないだそんなことがあったのも五、六年ほどもまえになりやすかね」




