さとり再々現
文月。
暦のうえではもう秋だが、まだまだ残暑、御府内のどこにいっても蝉がうるさく鳴くなか、しかし色吉はその声を岸辺にかすかに聞くだけの、猪牙をあやつって大川を柳橋から吉原のほうへのぼっていた。
といっても小さな舟はふらふら、よたよたと危なっかしく、色吉もへっぴり腰で川に落ちないのが精いっぱい、といったところだった。
「お、お、お」
情けない声をあげつつ舟胴のなかに転げそうになったり、川に落ちそうになったりしながら、なんとか踏みとどまった。
「くそ、助八さんがいてくれりゃ」
もちろん客など乗っていない。暇があるときは助八が同乗して指導したり手本してくれたりする。
そろそろ日も暮れる夕刻、吉原に着いたらすぐに引き返して、早く猪牙を返さなくてはならない。助八の奉公する紀撰から借りて操舵の練習をしているのだ。遠出のときなど、なにかの役に立つかもしれないと思ってのことだが、といってまだそんな機会はないし、そんな機会の来る当てがあるわけでもないのだが。
「まずい、暗くなってきやがった」
思ったより日が短くなっていた。宿を出てから、吉原までの半分も来ていない。まだ自分の腕前では、ここから柳の手前まで行って帰ったらすっかり日が落ちてしまう、と考えた色吉は、この辺で引き返すことにした。
「お、お、お」
色吉は櫓を使って舟を回したが、舟が回り始めたのに驚いて情けない声を出した。
反対を向きかけたのに勢いあまってまたもとの向きを向いてしまう。ぐるぐると三回ほど回ってやっと戻るほうを向くと、あたりはすっかり薄闇に包まれていた。色吉はまたへっぴり腰で漕ぎ始めた。
「この舟は客を乗せたときにうまいこと釣り合いがとれるようになっているんだから、ふらつくのも無理もねえってこった」
誰が聞いているわけでもない言い訳をぶつぶつと言う。
「しかし客を行き先に届けた帰りには一人で乗るのだろう」
急に舟が安定して、へっぴり腰がしゃんと伸びた。漕ぎやすくなった。
「まあそれゃそうなんだがよ――」
言いながら振り返ると、いま話しかけてきたヤツが舟胴にゆったりとくつろいでいた。体毛の異様に長い猿だった。
「いまおまえは、またおまえか、と思ったな」
サトリの妖怪は言った。
「そうだ、またわたしだよ」
色吉の手がとまった。
「いまおまえは、春先と梅雨どきに二度も退治したはず、だと考えたな。おまえに退治などされた覚えはないが、それでも念のため用心して、からっと晴れた天気の良い日に、焚き火の心配もないところにやってきたのだ」
色吉はサトリの黒い体毛が濡れていることに気がついた。
「いまおまえは、わたしが泳げるのか、と考えたな。そうだ、わたしは泳げるのだ。これは教えておいてやろう。だから舟から突き落としても無駄だぞ」
めまいがしてくる。
「そうだ、逆におまえが川に逃げこんでもだめだ。わたしも川に飛びこんで、おまえを捕らまえて喰らってやる」
そしてサトリは、キキキ、と軋るような声をたてた。笑ったのかもしれない。
それからサトリは立ちあがり、色吉に近づいてきた。
「おまえはいま、わたしが近づけば舟がひっくり返ってふたりとも川に落ちて、わたしがまた『人間というものは思っていないことをするものだ』と言いながら退散する、と考えたな。そうはいくか」
サトリはべったりと船底に伏せると、そのままずるずると這いよってきた。
「おまえはいま、なにも考えられないな。ただただわたしを怖いと思っているだけだ」
その通り、色吉は櫓を抱えたまま固まっていた。
川の流れに流されるままとなっていた猪牙が、どん、と大きな音をたてて桟橋の橋桁にぶつかった。びりびりという振動を体中に受けて、「ぐっ」と変な声とともにサトリは跳びあがったが、その拍子に桟橋の角に頭をしたたか打ちつけ、また「ぎゅぅ」と変な声をだした。
すっかり闇のさした桟橋に飛び乗ると、
「人間というものは思っていないことをするものだ」
と言いながら駆け逃げていった。
色吉はかろうじて艫にしがみついて、川に落ちるのはまぬかれた。
〈了〉




