五
悩みは抱えていたものの、稽古と本番で舞台にあがるとそれは頭から抜け落ちて、芸に集中できた。ずっと真剣に稽古してきた成果で、六陸は我ながら頼もしく、それを喜んだ。しかし楽屋に戻ると、また半田たちのことが頭をもたげてきて、六陸は落ち込むのだった。
色吉のあにさん――いや、親分に相談するか……しかしそんなことしたら、自分までお縄を頂戴するはめになるうえ、団は得意客まで失ってしまう。身勝手な話だと自分でもわかってはいるが、それは嫌だった。
あと九日くらいを、なんとかこのまま過ごすか。しかしあの散在具合からして財布がもつだろうか。いや、仮になんとかその期間しのいだとしても、そのあと、あいつらが旅回りにまでついてきてしまったら……
あの暇人どもならばそんなこともやりかねない。六陸は頭を抱えた。
さっきひと雨通り過ぎたおかげでだいぶ涼しくなった向両国の通りを歩いているときに声がかかった。
「色吉親分」
若いが落ち着いた感じの女が微笑んでいる。
「おう、あんたは六陸の……」
「女房の夏です」
女が腰をかがめて辞儀をする。
「そうだ、雲之丞のお夏さん」
お夏は微笑んでいるが、どこか暗い部分が残っていた。
「あの、親分さんに折り入ってご相談したいことがあるんですけど、引き留めておいてなんでございますけど、あたしも抜け出してきていて、すぐに小屋に戻らなけりゃいけないんです」
芸人の世話だの帳簿だの、目の回る忙しさだということは、色吉は一度訪問しただけだが気づいていた。
「おれも旦那についているところなんだ。夕方過ぎなら、八丁堀の、旦那のところに来てもらえりゃ」
「ごめんなさい、夕方も、ちょっと。夜じゃあだめですか」
「夜ならおれがここに来よう」
「いえ、ここじゃないほうが……。勝手を言ってごめんなさい、でも、いま言ってもらった旦那のお宅か、親分さんのとこでお願いしたいのです」
色吉はお夏に羽生邸の場所を教え、手早に段取りを整えると、先に歩いていた羽生多大有を駆け足で追いかけていった。
江戸にいるあいだはたいてい、舞台がはねて化粧を落としたのちは一座のものはほとんどが夜の町へと出かけていく。そんななか、六陸だけは居残って、お夏と茶を飲んで話など語るのが習いであったが、今日は迷っていた。
あいつらの言いなりになるのは癪だ。だが言うことをきかないとあの狂犬どもになにをされるか……
いや、自分に危害を加えるだけならまだいい。だが帆掛屋に昔のことをばらされて、団が大事なひいきを失うことにでもなったら……
やはり奴らの言う通りにするしかないのか。そもそも自分が行かないと、どうせまた乾のやつが迎えにくるだろうし、そうなるとまたお夏や左内にも見られちまう。
しかしあんな奴らの言いなりになるのは癪だ。
どうも堂々巡りだな。
いっそのことおれがひとり姿をくらませば……しかし女房もめとって子供もできるってのにそれは……それに、うぬぼれるわけじゃあないが、おれが抜けちまったら団の人気だって落ちちまうだろうし……
「今日、昼に買い出しに、表を歩いてたときのことさ」
お夏が言った。「むかしのあんたを知ってるって人に声をかけられたよ」
「へーえ」
考えごとのなかで揺れていた六陸は生返事をしたが、つぎにお夏が言ったことで顔色が変わった。
「お伊勢さんっていう粋な姐さんだったけど、六陸とはどんな知り合いだったんで? と訊いても、ただの友達だって言ってた。そうなのかい?」
お夏はちょっとからかうような目で六陸を見ていた。
「友達ってほどでもねえ、ただの顔見知りだよ。他にどんな話をした」
「べつに大したことは……。おめでとう、とか、いつ生まれんのか、とか、がんばって、とか。こっちもありがとう、つって。それだけさ。にわか雨だったけどちょうど降りだしたしね」
六陸はそわそわしはじめ、「ちょいと出てくるよ」と言いおいて出かけていった。
一軒目の小料理屋を出て、四人が次はどうする、居酒屋へでも行くか、などとぶらぶらと歩いているとき、横から声をかけたものがいた。
「吹田亭殿。話がござる」
居合い芸人、宮内左内だった。半田たちに向かって、「藪から棒に申し訳ない。が、吹田亭殿をお借りいたす」
左内は六陸を脇にひっぱる。
「吹田亭殿、今日の売り上げの半分がとこ、消えているのでござるが……」
もちろん六陸が持ち出したのである。しかし、こんなに早く露見するとは予想外だった。六陸にとっては予想外だったが、じつは小屋で露見したわけではなく、持ち出すところを居合い芸人が目撃しただけだった。半分というのは左内のでまかせだったが、六陸も適当につかんだだけだから、そう言われて特に疑問も持たなかった。
「宮内さん、むかし世話になった人たちに礼をしてるとこなんだ。懐がちょっとだけ心もとなかったもんだから拝借したってわけさ。角兵衛さんにはあたしから言っとくから、ここはひとつ見逃しておくれよ」
「吹田亭殿。実を申せばずっとあとをつけていたが、とてもおっしゃるようには見えない。差し出がましいことをして申し訳ない。が、どうも拙者が直に話したほうがよさそうでござるな」
「いや、それは待っておくんなさいな」
「やいやい、いつまでこそこそ話してやがる」
乾が背後から大声をあげた。「用が済んだら、いや済まなくてもとっとと失せろい、この半竹侍が」
宮内左内と六陸は話しながら歩いていて、半田たちも付いてきていた。いつのまにか人通りのない寂しいところまで来ていた。あるいはこれは左内の目論見だったのかもしれない。
「はは、拙者は、奢侈なる格好をしているくせに他人の財布にたかるようなコツジキではないからな、半竹で大いに結構」
「なんだと!」
乾が抜いた。――はずだったが、もうその手に刀は握られていなかった。
「あれっ?」と、不思議そうな顔をする。「い、痛え!」
ちょっと遅れて痺れてきたらしく、乾が利き手を振っている。抜き身はその足元に転がっていた。その手が落ちていないのは、峰打ちだったからだ。
半田はものも言わず抜いて乾の陰から飛び出すように左内に襲いかかった。
左内はいったん鞘に納めていた刀を目にもとまらぬ速さで振るった。
「ぐっ」
半田の刀も地面に落ちた。
「卑怯者め、こちらは酔っておる。酔っぱらいを斬ったところで自慢になるまい」
自分から斬りかかったくせに、半田がそう言った。左内は相手にしなかった。
「吹田亭殿は体を休めねばならぬ身であるから、以後のつきあいは遠慮する」
左内は茫然と立ちすくんでいた六陸を連れて去っていった。半田たちは黙ってそれを見送った。
教わった通りに裏木戸を抜け、建物の裏口の戸を叩いた。
少し間をおいてから、
「山」
と、内側から声がした。
「川」
お夏はこれも教えられた通り答えた。するとほとんど音もなく戸が開いて、色吉が立っていた。
「おっ」と、色吉はちょっと驚いた表情を浮かべたが、すぐに、「よく来なさった。あがってくんな」とお夏のために体を引いた。
「吹田雲之丞ふたたびまいる、ってとこだね、よくお似合いだ」
お夏は羽織袴と、男の格好をしていたのだ。
ご隠居の座敷に通されて、そこの主の羽生歩兵衛とその息子の同心多大有を紹介された。
「去年の綱渡りを見せてもらいましたよ、お見事でした」
ご隠居の歩兵衛が言った。多大有は少し離れたところに黙って腰掛けた。
「恐れ入ります。お恥ずかしい」
腰をおろして歩兵衛と色吉と向かいあうと、待っていたかのように娘がお茶を運んできた。
「おう、ありがとよ、お代わりはいらねえから、留緒ちゃんはもう寝てくれ」
「色吉さんがいらなくても、お夏さんやご隠居さんが欲しいかもしれないだろ」
留緒は唇をとがらせた。
「ありがとう、でもすぐにお暇しますから、あたしもお代わりは結構ですよ」
お夏が言った。
「わしもお代わりが欲しくなったら自分でいれよう。留緒殿はもう寝なさい」
「はあい。おやすみなさい、ご隠居さま。お夏さんも、おやすみなさい」
ご隠居に言われては留緒も従うしかない。娘は色吉には舌を出して、しぶしぶと引っ込んだ。
言った通り、お夏は小半刻後には羽生邸をあとにした。多大有が発条巻きにいくついでに小屋まで送っていった。




