四
翌日の日中は、乾は来なかった。
いつ来るかとおそれて気が気ではなかった六陸は、ほっとするとともに気の抜けた感じだった。
その夜、楽屋でお夏を相手に茶を飲んでいるところに、宮内左内がやって来た。「吹田亭殿」
六陸は、すわ来たか、と身構えたが、居合い芸人は、「実は折りいって相談したいことがござる」と、いかにも困り顔で言った。
「じゃあ、あたしは向こうでお浜さんとでも話してるよ」
お浜とは一座の曲芸師だ。お手玉や皿回しをやっている。
お夏が出ていくと左内は困り顔を消して、無表情だが真剣な顔つきになった。
「吹田亭殿、昨日の坊主頭のことでござる。なにか困っておられるなら、拙者およばずながら力になれると思いまする。打ち明けてはくださらんか」
「い、いや、あいつぁ昔ちょいとつきあいのあったやつで、今あたしが江戸に来ているのを知って、呑みにいこうと誘ってきやがるってだけで、宮内さんも知ってのとおり、夏のやつがうるせえもんでほら、断ってるんだが、ちいとしつけえ、ってだけのことで、困ってるってほどでもねえんで、宮内さんにまで心配かけちまってすまねえ」
「ふむ、ならばよいが。まあ、なにかあったら、いつでも相談してくだされよ――」
居合い芸人は立ちあがった。
「あんた」
そこへお夏がもどってきた。「お客さんだよ」
噂をすれば……。六陸と宮内左内は顔を見合わせた。
「へへ、じゃあ、また断ってくるんで、心配なさらねえでくだせい」
六陸はお夏と入れ替わりに表に出ていった。
六陸と乾は昨晩と同じところで立ち話をしていた。
「六陸先生、もっと持ち歩くように、って昨日言っときましたよねえ」
「だから昨日も言ったとおり、あたしの自由になる銭なんてないんですよ。勘弁しとくれよ」
「しかしねえ六陸先生、よおく考えてみちゃあどうです、自由になる銭がないおかげで、自分が自由にならなくなった、なんてことになっちゃあ、元も子もないでしょうに」
「どういう意味だ。あたしを脅そうってのか」
「いやですよう、人聞きの悪いことをおっしゃっちゃあ。六陸先生のことを思ってのことですぜほんとに。だって先生が金をくれないせいで半田の兄貴が世をはかなんで、自棄なことになっちゃあ、困るのは先生のほうだ、ってもんでしょう」
乾が嫌な顔で笑う。
六陸の脳裏にあのときのことがよみがえる。
やはり暗い夜だった。
まだ乾たちとのつきあいがあったころで、六陸の不景気がもうどうにもならない、というところまできたころのことだ。
あとから考えると、そんなころに傾き者ども、というより破落戸どもとあいかわらずつきあっていたというのも悪かった。悪かったのだが、小屋のまずい状況を認めたくなかった、逃げたかったのだ。
六陸と破落戸ども――乾、半田とお伊勢――は夜中の通りを歩いていた。
ちょっとまえに、根城にしていた居酒屋を追いだされたのだ。
「師匠、たまってる付けを払ってもらわないかぎり、もう一滴だって出すわけなあいかねえ」
店の主人はそう言った。
「ちぇ、いままでさんざ飲み食いで潤わしてやったじゃないか」
「そうよ、師匠だからこそ、ここまでたまるまで辛抱我慢したってもんだ。だがもういけねえ、こっからまた付けられるようじゃ、もうこっちだって立ちいかねえんだ、たとい仮にもし師匠を怒らせちまったとしても、そんでもう師匠がこなくなったとしても、儲けより損のほうが大きいんで、だからこっちだって――」
歩きながらお伊勢が言う。
「さて、つぎはどこにいくかねぇ」
「だるまやかな」と、乾が答える。
「きのう追いだされたばかりだろうが」と半田が言った。
「じゃ毛利屋」と、乾。
「それは一昨日だ」と半田。
「浜や」
「一昨昨日」
「師匠、なんとかしてくださいな」
お伊勢が六陸に言った。
「えっ、なんとか……うん、なんとか……」
半田が小さく舌打ちをして、それから六陸に話しかける。
「師匠殿、こうなってはどなたかに援助を乞うしかないのではなかろうか」
「どなたか、っていってえ誰にだえ」
「そりゃあ、金を持っているお人に決まってるさ。先立つもんがなけりゃ援助なんてできないだろ」
お伊勢が言った。
「ううん……」
そんな知り合いなどいない。六陸は詰まってしまった。そもそも銭ならば自分が持っていたのだ。それにこいつらがたかっていたというのに、なぜ自分が他人にたかってまでこの破落戸どもにたかられなければならないのか。
「師匠殿、あのお方に頼んでみてはいかがだろうか」
半田が足をとめ、提灯を前方にむけた。
向こうからも提灯の灯りが近づいてくる。
「え、誰だい」
「裕福そうな商人とその供のものかな」
半田は星明り程度でも遠くまで見えるようだ。
「あたしの知ってる人かえ」
「いいや」
「あんたの知りあいかえ」
「いいや」
「ならそんなこと頼めるわけないだろう」
「頼むだけ頼んでみてはいかがかな」
「そんなこと、無理でしょうに」
「半田さんがそう言ってるんだ、まずはやってみちゃあどうです、先生」
乾が六陸の肩に手を回し、横から口をはさんだ。
「そうだよ、師匠」
反対側からお伊勢も言う。
「そんな、無理だ」
だが六陸は両側からおさえられたまま、ふたたび歩きだした半田についていくほかなかった。
商人とお供とすれ違う、というとき、六陸は乾に突き飛ばされ、ふたり連れのまえをふさぐかたちで転がった。
「なんです、酔っておいでですかえ」
お供が六陸の顔に提灯をかざしてくる。「おふざけになっては困ります」
気丈に声をかけてきたが、まだ若いらしいその声はかすかに震えていた。
「いや、いや、おどろかしちまってすいやせん」
六陸は転がった状態から土下座する体勢になった。「ただ、旦那にお願いが――」
「なんですえ、こんな時間にこんな場所で。用があるなら昼間にお店のほうへ来ておくんなさい」
お供とその主人の商人らしき男は六陸を避けて通ろうとした。
「いや、お金を貸してほしいんで。なんとか頼みやす」
六陸は自棄になっていた。主人のほうにすがりつこうとした。
「うわっ、よしてくれ」
「人を呼びますよ」
主人が六陸の手を払い、お供が手を伸ばして六陸の肩を押した。六陸はたたらを踏んで尻餅をついた。
「むっ、師匠殿、やられたか。助太刀いたす」
半田の声がし、商人とお供と、それから六陸の三人が期せずして声をそろえて「え」と言った。
次の瞬間には半田は刀を抜いていた。
「よせっ」
六陸は半田の腰にむしゃぶりついた。軽業師のすばやさは半田にとって予想外で、商人とそのお供を一刀で斬っていたはずの太刀筋は、犠牲者たちに太刀風を送ってその肝を冷やさせただけにとどまった。
しかしそれで充分に目的を達したとはいえた。すっかり怯えてしまって、商人が懐から財布を取り出したからだ。
「命だけは……これで有り金全部でございます」
乾がそれを取った。「おう、ずっしりと重いぜ」
「あ、ありがとうございやす。――さあ、さ、行こうよ」
六陸はぺこぺこと頭をさげながら乾と半田を押していった。へたり込んだ商人と供のふたり連れが、茫然として残された。
「覚えてるんだろうよ、あの晩のことはよ」
乾が下卑た笑いを浮かべていた。「天下の銀明亭――いや、いまは吹田亭か――六陸先生が、追いはぎ強盗をはたらいたなんてねえ」
「あれはおまえさんたちがやったことじゃないか」
「とぼけてもらっちゃあ困りますな、先生。先生だって、さんざ、いい思いをしたでしょうに」
乾の笑いが凄みの利いたものに変わる。
あれからまた六陸と破落戸どもは、奪った金を持って深川へんの岡場所などに繰り出した。
夜が明けたころ、乾は、「いいか先生、あんまり余計なことを吹聴しないようにな、あんただってぐるなんだから。じゃあ気をつけな」と言い、六陸は道端におっぽり出された。
それ以来、破落戸たちは六陸に近寄らなくなった。金の切れ目が縁の切れ目、とはよくいったものだ。六陸は半田たちの身勝手さに腹も立ったが、ほっとした部分もあった。いや、そちらのほうが大きかった。
「立派な共犯てやつだ、そうでしょうが」
乾が顔を、ほとんど頬と頬がつかんばかりに近づけてくる。「あんときの帆掛屋さん、いまじゃあ先生の小屋のひいき客、ほとんど谷町みてえになってるって話じゃあねえですか。実はむかし夜中に襲った強盗の一味に先生がいたなんて知っちゃあ、どう思いやすかねえ」
六陸は腰が抜けて地べたにくずおれそうになった。こいつ……こいつら、そんなことまで調べたのか。おそろしいやつらだ。
「おや、へへ、先生、なんとか言ったらどうです。なんだ、なにも言えねえのか。まあいいや、とりあえず行こうか。懐かしい仲間たちが待ってるぜえ」
帆掛屋の主人、久兵衛は今度の見世で西国曲芸団を気に入ってくれて、いろいろと援助などしてくれている。六陸はしばらくしてから、あの晩の商人だったということに気がついて青くなった。そして半田と乾に引きずられてとはいえ、彼から金を奪い取ることになった件が露見することをもっとも懼れていたのだ。
乾に肩をほとんど抱えられるように六陸は連れていかれた。
待ち構えていた半田とお伊勢と合流して、居酒屋で有り金すべてを遣わさせられ、不足分は小屋へのつけにされてしまった。
「まあ、今日は小手調べといったところでござるかな」
久しぶりに会った半田は、ずいぶんとすさんだ印象になっていた。それとも昔からで、六陸が気がついていなかっただけなのかもしれない。
「楽しかったねぇ、江戸で噂の六陸団、復活だねぇ」
お伊勢のほうは、これはたしかに化粧がますます厚くなっていた。
「じゃあ、あたしはこれで」
と六陸が帰ろうとしたときだった。
「ところで六陸先生よ、いちいち俺様に迎いをさせるなんざぁ、さすが先生、大物だ。だけどよ、もう二日もわざわざ行ったんだ、餓鬼の使いじゃああるめえし、先生、明日の晩からは自分で出てきてくれよな」と、乾が言った。
「うむ。来なければどうなるかは、もう承知しておるよな、師匠も」
半田は唇の端を捻じ曲げ、笑った。




