三
乾の野郎、また明日にでもやってくるのだろうか。また金をやって追い払うべきか。その晩、布団に入ってから六陸は考えた。
いや、明日はきっぱりと断るべきだろう。いつまでもたかられたのではたまったものではない。
しかしそんなことが自分にできるだろうか。野郎の狂犬ぶりはよく知っている。つきあいのあったのはほんのひと月ほどだったが、その短いあいだでも相当なものだったのだから、ひょっとしたら実情はもっとひどいのかもしれない。江戸での興行はあと十日ほどだから、金をやってやり過ごそうか。しかし毎日一分づつとられたとしたら二両二分にもなってしまう。今日のを入れれば二両三分だ。もっと出せ、と言ってくることだってあるだろう。いや、きっと言ってくる。ああ、なんで一分なんて出しちまったのだろう、せめて一朱くらいにしておけば……
六陸は布団のなかで後悔にのたうち回った。お夏は横ですやすやと寝ている。
西国曲芸団の一座は、興行小屋の見物席と舞台に雑魚寝しているのだが、六陸と女房のお夏だけは昼間の楽屋を個室として与えられていた。本来ならばひと部屋を座長の吹田角兵衛が使うところなのだが、六陸と雲之丞ことお夏の夫婦は団の功労者だし、お夏の事情もあるので特別にそういうことになったのだ。
どんどんと戸を叩く音がした。
六陸は暗闇のなかで目を開き、お夏の様子をうかがった。安心したことに、すうすうと寝息を立てている。六陸は音を静かに身を起こし、つま先立ちに部屋を出ていった。
寝ているものを踏まないように気をつけながら、見物席の端を通って小屋の出入り口に進むと、向こうから誰か歩いてきた。
「吹田亭殿、昼間の客人がまた現れたが、いかがなされるか」
居合いの宮内左内だった。浪人とはいえ武士なので、しぜん一座のなかでは用心棒のような役割になっている。もっとも、浪人とも武士とも、本人の名乗ったことはなく、周りがそう憶測している、というか決めつけているだけだった。
六陸は顔から血の気の引くのを感じた。灯りもないなかで見えたわけでもあるまいが、すぐに居合い芸人は、
「吹田亭殿、なにやら仔細のあることでござるか。拙者も同道いたそうか」と言った。
「いや……結構。あたしだけでいきます」
左内は黙って六陸を見送った。
「どうしたんだ、なんだい、こんな夜分に」
「おいおい、こんな夜分、ってよお、ずいぶん変わっちまったなあ、六陸先生からしたらまだ宵の口もいいとこだったじゃねえか」
「しっ、大きな声を出すなよ」
六陸は表に出て歩きだした。乾もおとなしくついてきた。おとなしくついてきた、と思ったが、
「昼間のあれは、もうなくなっちまったよ。んで六陸先生を誘いにきたってわけよ」
と、しかしすぐにおとなしくなくなった。六陸は黙ったままちょっと歩いたところで振り返った。乾が、おっ、やるか、という感じで構えるが、六陸は地面にひれ伏した。
「頼む、小屋にはもう来ないでおくれ。あたしに自由にできるのは昼間に渡したあれで全部なんだ。もう出ないよ」
土下座で頭をさげる。乾はその脇にしゃがんで、やさしく声をかけてくる。
「六陸先生、そんなことなすってもらっちゃ困る。昔のよしみじゃねえか。また仲間どうしで楽しくやろうぜ」
「ちっ、あたしが景気悪くなると、すぐにどっか行っちまったくせに」
「だからまた六陸先生の景気が良くなったから、こうして戻ってきて、また誘ってるんじゃねえか」
どうも理屈が手前勝手だが、本人はそんなことに気がついていない。気がついていないどころか、おかしいとも思ってもいない。説明されたって理解できないだろう。「だからほら、先生、立ちなよ。例の店で半田とお伊勢も待ってるぜ。ふたりとも久しぶりに先生に会うのを楽しみにしてるんだ」
「だからもう、あたしには先立つものがないんだよ、そう言ってるだろう。外からは景気がよく見えたって、あたしはもう小屋主でもない、雇われの身なんだから、自由にできる金なんかないんだよ」
「しようがねえなあ、そこまで来れないってんならもう誘わねえが、じゃあせめて財布だけでも出しやがれ」
「いや、だからもう出せない、って言ってるだろう」
乾は六陸の肩に手をかけて身を起こさせると、懐に手をつっこんで財布を抜きだした。
「なにする――」
乾は六陸を突きとばした。座ったところからだったので痛手はないが、六陸は乾の膂力を改めて思い知らされ、起きあがる気になれなかった。
「おいおい、しけてんな、あのしけた昼間の、さらに半分しかねえじゃねえか。まあ仕方ねえ、明日はもっと持ち歩けよ、でなきゃつぎは取りに戻らせるぜ」
乾は六陸の財布から落とした二朱を袖にしまうと、財布を六陸のうえに放って歩き去った。




