二
盛大な拍手じゃあないか。まったく、胸がすくってもんだ。
舞台袖に引っ込みながら吹田亭六陸は充実していた。
「吹田亭殿、お見事でした」
髷の白い商人が頭をさげてきた。
「ああ、帆掛屋さん。見ていてくだすったんで」
商人は帆掛屋の主人で、久兵衛といった。
「ええ、今日は久々に。あいかわらず見応えがありました。楽屋のほうに差し入れなど届けておきましたから、つまらないものですが召しあがってください」
久兵衛はていねいに頭をさげた。六陸も深々と辞儀を返した。
「ではわたしはこれで」
「帆掛屋さん、寄っていかれちゃあ」
「いえいえ、おかげさまで繁盛しておりますので」
「これは、お忙しいなかわざわざどうも」
六陸は去っていく久兵衛に向かって再び頭をさげた。
楽屋に戻りながら、顔も自然にほころんでくる。昔なら、こんなときに一杯飲みたくなったものだったが、いまはもう、まったくそんな気にはならない。
「そんなに飲みたけりゃ、お酢でもお飲み」
お夏はそう言い、ときには本当に酢を飲ませた。「体がやらかくなるよ」
おそろしく気の強い女で、隠れて飲んだのがばれたときには半殺しにされたこともある。
それでも酒をやめられないでいると、ある日お夏は、酒臭い息を吐きながら寝ている六陸を悲しそうな目で見たがなにも言わず、部屋を出ていった。
あの女が見せたことのない顔だったので、なんだか嫌な予感がして六陸は深酒で重い体をなんとか起こしてあとを追った。
お夏は、帯を輪にして大部屋の桟にかけ、そこで首を吊ったところだった。台もなしに、ぴょんと跳びあがって帯に首をかけたのだ。さすが曲芸師、吹田雲之丞だ、と一瞬感心したが、すぐにそれどころじゃない、と足に飛びついた。ばたばたと暴れるのをなんとかおさえて、どうにか首をはずしていっしょに倒れこんだ。
「ばかっ、お放しよ、もうあんたが呑むのをやめなくて、生きてたってしょうがない」
「莫迦はおめえだ。自分の思いどおりにならねえからって簡単に死ぬんじゃあねえ。人生世の中、思いどおりにゃならねえもんなんだよ」
「利いた風なこと言うんじゃないよこの宿六が。あたしが死ねば、あんたもちっとは反省して酒がやめられるんじゃあないのかい」
「おれが反省するはずはねえだろう。おめえがいなくなったら歯どめがなくなってますます飲むようになったらおれは酒毒で死んだらどうすんだ」
「ひとごとみたいに言いやがって、しかも勝手なうえわけのわかんないことを。だいたいもとはといえば全部あんたがもとなんじゃないか」
「だからおめえ、ちゃんとおれを見張っててくれよ、お夏、死ぬなんて二度と言っちゃ再び無責任なこと言うな。言わねえでくんな」
「このろくでなしが、あんたろくでなしで、六陸なんて名前にふたつもろくがついてるくせにろくでなしじゃないか」
罵りあっているうちに泣けてきて、しかし言っていることが妙におかしくて、ふたりともしまいには泣き笑いみたいになっていた。
このときから、六陸は一滴も飲んでいない。
酔えばいい気分になる。いい気分にはなるが、それはつまり、頭や感覚が鈍るということでもある。それはつまり、こういう感動も十全に味わっているとはいえなくなってしまう、ということがいまではよくわかる。
「吹田亭殿、貴殿に会いたいというものが外にいるが」
楽屋で煙管をやっていると、居合いを見せる芸人がやってきた。「どうされる」
「ああ、ありがとよ、行ってくるよ」
居合い芸人は宮内左内といった。本名だかどうだかは六陸も知らない。
「ひさしぶりだな」
小屋の裏から、裏道に出ると、禿頭の巨漢が声をかけてきた。もう髷を結うほども髪が残っていないので剃ってしまっているのだ、ということを思い出したくもないのに思い出してしまった。
「うっ」
六陸は言葉が出てこなかった。きっと色吉だと思ったのに、もっとも予想していなかったやつだった。
「ずいぶんと景気がいいみてえじゃねえか」
いつかの色吉のようなことを言ったが、言葉の裏にある意味は逆だった。
「へ、へい、おかげさんで」
六陸は頭をさげた。
「おいおい六陸さんよ、ずいぶんと他人行儀じゃあねえか。ちぃとまえには禿だの似非坊主だの、親しく呼んでくれたもんだってのによ。また昔のように通といえば可嗚呼といこうじゃあねえか、よう」
「昔は、そう、いろいろとすまなかったよ……ですよ。じゃあそういうことで」
「おっと待てよ。久しぶりにこうして会えたのもなにかの縁ってやつだろう」
「ちぇ、自分で会いにきたんじゃないか」
「なにか言ったか」
「いえなにも。じゃあ――」
乾は六陸の肩に腕を回してきた。「水くせえこた言わねえでよう、久しぶりなんだから久しぶりに飲みにでもいこうじゃねえか、久しぶりにぱあっとやろうぜ」
「いやまだこれからいろいろやらなけりゃならないことがあるんで、すまないねえ」
六陸が行こうとすると、しかし乾はその太い腕をがっちりと喰いこませてきた。「だからよう、水くせえこと言うな、ってんだろうよ」
「うっぷ。あんた、呑みにいこう、って、もう呑んでるじゃないか」
「おいおい、六陸先生らしくもねえ。こんなもん、呑んだうちに入らねえだろうぜ。ほら、いくぜ」
「いやだから、あたしはほんと、行けないんだ。そうだ」
六陸は懐をあさった。「ほら、こいつでうまいもんでも。あたしは残念ながらいっしょにゃ行けないけどね」
乾は六陸から小粒をとりあげた。見もせずに手触りだけで、裾にしまう。
「たった一分とはしけてんな。ずいぶん儲かってるんじゃねえのか」
「たった、ってことはないだろう。そんだけありゃあ相当ぜいたくできる」
「まあ忙しいんじゃあしょうがねえ。また来てやらあ」
二度と来てほしくないのだが……奴から逃れたいあまり、金を渡しちまったのはかえって失敗だったろうか。六陸は茫然と乾を見送った。




