第九話 新しい生活
ヴィクトルはもういない。けれど、彼を名指しする書類も、債務も、世間からの非難も、そこに残されたままだった。
そして、本当の事情を知る人は、永遠に口を閉ざしてしまった。
さらに厄介なことに、リナとマリアには、東京に戻れる場所がもうなかった。ヴィクトルとオーストリアの親族との関係は、もともとひどく疎遠で、長年ほとんど行き来がなかった。両親が亡くなったあとも、二人の子どもを引き取ろうという意思や余裕のあるオーストリア側の親族は、誰もいなかった。
そこで、関係機関の協力のもと、姉妹は日本側の親族を頼ることになった。
最終的に、二人は長野へ行くことに決まった。そこは詩織の故郷であり、彼女の父、つまりリナとマリアの祖父が暮らす土地だった。
病院を出る日、リナはマリアの手を引いていた。
マリアは小さなリュックを背負い、もう一方の手には、ソーシャルワーカーからもらったぬいぐるみを抱えている。この先にどんな暮らしが待っているのか、彼女はまだ知らなかった。
リナも、知らなかった。
分かっているのは、今日からは、自分にはお父さんもお母さんもいないということだけ。妹を連れて、まったく見知らぬ未来へ歩いていかなければならない。
長野駅のホームで、リナはマリアの手を引き、静かに人波の中を歩いていた。大人たちに付き添われ、長い道のりを経て、二人はようやく長野にたどり着いたのだ。
駅の外の空気は、東京とはまるで違っていた。車と人が行き交う都会の喧騒が消え、吹いてくる風には、山間ならではのひんやりとした清涼感があった。
「リナ!」
聞き覚えのある声が、少し離れたところから届いた。
リナは顔を上げた。白髪の目立つ老人が、車のそばに立ち、こちらに手を振っている。
「おじいちゃん!」
マリアが真っ先に叫んだ。
相田大介は足早に歩み寄り、二人の前で立ち止まった。
この人は詩織の父で、もともと地元で楽器店を営んでいた。それが「相田楽器」の前身である。
詩織は若いころ、オーストリアに留学してヴィクトルと出会った。のちにヴィクトルは詩織について日本へ来て、相田楽器で働きながら学び始めた。
やがて二人は結婚し、ヴィクトルは相田楽器を東京に移して、もっと大きな会社にしようと提案した。
けれど当時、大介はすでに年を取っていたため、思い切って看板をヴィクトルに譲り、自分は長野に残った。こうしてヴィクトルは「相田楽器」の名を残したまま、東京で事業を広げていったのだった。
こんなことになるとは、当時の大介は夢にも思わなかった。
彼はリナを見て、それからマリアを見た。事故の知らせはあらかじめ聞いていたのに、二人の子どもが実際に目の前に立っているのを見ると、胸がきりきりと痛んだ。
「よく来たね。大変だったろう」
大介は手を伸ばし、リナとマリアの頭をそっとなでた。
「おじいさん……」
リナは、見慣れた老人の顔を前にして、ふいに鼻の奥がつんとした。
「さあ、まずは家に帰ろう」
大介はそれ以上何も言わず、二人の荷物をトランクに積んだ。
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車は、ゆっくりと長野駅を離れた。
道中、大介はバックミラー越しに、後部座席の姉妹をときどき見た。
マリアは窓にもたれて外の景色を眺め、リナは隣で静かに座っていた。
「おじいさん……」
しばらくして、リナが小さな声で言った。
「お父さんとお母さんは……」
最後まで言えなかった。大介はハンドルを握る手に、少し力を込めた。
「分かっているよ」
その声は低かった。
「おじいさんも、つらいよ」
車内がしばらく静まり返った。
「あの子は……」
大介は小さくため息をついた。
「詩織はあんなに若かったのに、ヴィクトルくんも……」
彼は言葉を切り、しばらくして、何か思い出したように苦笑した。
「実はね、お父さんは前からよく、私にお金を送ると言ってくれていたんだ。
今は会社も順調だから、私が引退したあと、楽に暮らせるようにしたいって。
でも、娘夫婦のお金をもらうなんて、とても気が引けてね」
大介は少し笑ったが、その笑みはすぐに消えた。
「そのたびに、いらないって断っていた。それが、こんなことになるなんて……」
彼はしばらく黙った。
「あのとき、受け取っていたら、せめて今……」
声が少しかすれた。
「おじいさんは、お前たちにもっといい暮らしをさせてやれたかもしれない」
リナは慌てて首を振った。
「おじいさんのせいじゃないよ」
「……」
「お父さんとお母さんだって、そんなふうに思ってほしくないはず」
大介はバックミラー越しに彼女を見た。数秒して、やっと穏やかな笑みを浮かべた。
「お前は、相変わらず聞き分けがいいな」
「でもな……」
「こういうときくらい、たまにはわがままを言ってもいいんだよ」
リナは答えず、ただ小さくうなずいた。
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大介の家は、静かな住宅街にあった。
年季の入った二階建ての家だった。外壁は少し色あせ、軒下の木材にも、歳月の跡が刻まれている。
庭は広くないが、きれいに手入れされていた。
玄関先には鉢植えがいくつか置かれ、そのそばには、すっかり履き古された長靴が一足そろえてあった。
家の中の造りも、東京の新しい住宅とは違って、板張りの床も引き戸も、はっきりと年月を感じさせた。
玄関には一枚の写真が飾られていた。大介の亡くなった妻、つまり、リナとマリアが会ったことのない祖母だった。
マリアは家に入るなり、何かを思い出そうとするようにあたりを見回した。前に来たのは一年以上前のことで、まだ幼かった彼女には、記憶がぼんやりしている。
「前に、ここで牛乳をこぼしたことがあるんだぞ」
大介は、きょろきょろするマリアを見て、からかうように言った。
「そんなことしてないもん!」
「はは、覚えてないのか?」
リナも思わず笑ってしまった。
この場所は、彼女にとって見知らぬところではない。小さいころ、両親とよく長野に来ていた。大きくなってからは来る回数が減ったけれど、家の中のすべてに、姉妹はなじみを感じた。
「お姉ちゃん!」
マリアが突然、廊下の向こうから駆け戻ってきた。
「あっちに部屋があるの!」
彼女はリナの手を引っぱった。
「中にピアノがあるよ!」
リナははっとした。
二人はマリアについて、部屋の入口まで行った。
扉を開けると、部屋の中には、古びたピアノが置かれていた。
本体には歳月の跡が刻まれていたが、それでもしっかりと手入れされている。
「わあ……」
マリアはすぐに部屋に駆け込んだ。
「お姉ちゃん! ピアノだよ!」
大介は戸口に立っていた。
そのピアノを見つめるうちに、彼の表情も、ゆっくりと沈んでいった。
「それはね、お母さんが昔使っていたものなんだ」
「お母さんは、昔ここで練習していたんだよ」
リナはピアノの前に立った。
そっと手を伸ばして、鍵盤蓋に触れる。もちろん、このピアノのことは知っていた。母が少女のころ、音楽の練習に使っていたピアノだ。
けれどマリアは、二人の様子の違いに気づかなかった。
「お姉ちゃん、これ弾いてもいい?」
リナは答えなかった。大介も答えなかった。
二人はただ、そのピアノを見つめていた。
今の自分たちには、ピアノを続けるだけの余裕など、もうなかった。
かつては当たり前に生活の中にあったものが、今は突然、手の届かない遠いものになってしまった。
マリアは二人の表情を見て、意味は分からないながらも、それ以上は尋ねなかった。
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一週間後。
姉妹の生活は、ようやく少しずつ落ち着いてきた。二人は近所の公立学校に通い始めた。
リナはこれまで私立の女子校に通っていたが、特に馴染めないということもなかった。ただ、彼女についての噂が出始めた。
「あのハーフの子、東京の何とかって会社の子じゃない?」
「え?」
「ああ、なんか知ってる。最近ニュースになってた、あれでしょ?」
声は大きくなかったが、リナには聞こえていた。
父の会社、相田楽器は、そもそも大企業ではなく、あの騒動もニュースではごく小さく扱われただけだった。
それでも、リナの目立つ外国の名前に、ハーフの外見も加わって、すぐに人に気づかれてしまった。
リナは気にしていなかった。そうした視線やひそひそ話は、聞こえないふりをするだけだ。
けれど彼女は、別のことが心配になり始めた。
マリアはまだ五歳。もし彼女まで同級生に気づかれたら? こんなに小さいうちから、両親のことに巻き込まれてほしくなかった。
その晩、リナは自分の考えを大介に打ち明けた。大介は長いこと黙っていたが、やがてうなずいた。
「お前が本当にそうしたいなら、そうしよう。
ただ、手続きはちょっと面倒だよ。おじいさんが一緒にやってあげよう」
数日後、関連する手続きが終わり、姉妹の名前は正式に変更された。
もとの名前は、日常生活から消えた。
リナは、
相田里奈
になった。
マリアは、
相田麻里
になった。
携帯の番号も、新しいものに変わった。
なじみのある名前も、過去の連絡先もない。周りから見れば、二人は長野で祖父と暮らす、ごくふつうの女の子にすぎなかった。
里奈は窓辺に立ち、夜の長野を眺めた。
過去が本当に消えることはない。それは分かっている。でも、せめて今日から――妹と二人、もう一度生き直してみよう。




