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アンサンブル  作者: betty
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第八話 転機

「僕……」


ダヴィッドが口を開きかけたとき、リナの携帯電話が突然鳴り出した。


「プルルルル――」


リナははっとして、画面に目を落とした。


お母さんだ。お母さんが、どうして急に電話を?


「ごめんなさい、出るね」


リナは通話ボタンを押した。


「もしもし? お母さん?」


電話の向こうは、すぐには答えなかった。少し急いたような息づかいだけが聞こえる。


「……リナ?」


詩織の声が届いた。


いつもの穏やかでやさしい声とは違う。はっきりと震えていた。


「お母さん?」


リナは背筋を伸ばした。


「どうしたの?」


「今、どこにいるの?」


「私……」


リナは隣のダヴィッドをちらりと見た。


「ダヴィッドと、マリアと一緒にいるよ」


電話の向こうで、数秒の沈黙があった。


「すぐに帰ってきなさい」


「え?」


「今すぐ、帰ってきて」


詩織の声は相変わらず小さかったが、慌てを必死に押し殺しているのがはっきり分かった。


「お母さん、いったい何があったの?」


「帰ってから話すわ」


「でも――」


「リナ」


詩織が遮った。


「急いで帰ってきて」


電話はそのまま切れた。


リナは呆然と携帯を見つめた。母の声に、こんな恐れが混じっているのを聞いたのは初めてだった。


「どうしたの?」


ダヴィッドが尋ねた。


リナは顔を上げた。さっきまで笑っていた顔が、すっかり青ざめている。


「お母さんが、すぐ家に帰ってきなさいって」


彼女は、眠っているマリアに目をやった。


「なんだか……家で、何かあったみたい」


ダヴィッドも笑みを消した。


「それなら、早く帰って」


リナはうなずいた。


慌ててダヴィッドに別れを告げ、タクシーを呼ぶ。


「今日はありがとう。また連絡するね」


「気をつけて。何か手伝えることがあったら言って」


ダヴィッドはマリアを後部座席に抱え入れ、リナが乗り込むのを見届けた。


ドアが閉まったあと、リナは窓越しに、道ばたに立つダヴィッドを見つめた。


車が走り去るまで、彼女はゆっくりと視線を戻さなかった。


---


家に着くと、リビングの明かりはすべてついていた。


リナが玄関に入るなり、ヴィクトルの声が聞こえた。


「何度も言っているとおり、この送金は私が承認したものではない」


声は書斎から聞こえてくる。


「理事会の議事録を照合してもらえば分かる。私はこの資金移動を承認していない」


リナは足を止めた。


「これが私個人の指示だと言うなら、原本の承認書類を出してもらいたい」


ヴィクトルの声が、どんどん低く沈んでいく。


「いや、今すぐこの債務を私が負うことには同意できない。会社の口座と私個人の口座は、法的にまったく別の主体だ」


電話の向こうで、何か言われたようだった。


ヴィクトルは数秒、黙った。


「……何だって?」


口調が、はっきりと変わった。


「銀行が、期限前の返済を要求するつもりだと?」


携帯を握る手が、かすかに震えている。


「筋が通らない。もともとの融資契約では、期限の利益を喪失させる事由は何も発生していないはずだ」


また沈黙。


「それでもその決定を貫くなら、すぐに弁護士から連絡させる」


「だが、もう一度言う――あの書類の署名は、私のものではない」


ヴィクトルは電話を切った。


リナは戸口に立ったまま、身動きひとつできなかった。


そこでようやく、ヴィクトルが彼女に気づいた。


「リナ?」


「お父さん……」


リナは父を見つめた。


「何があったの?」


ヴィクトルは答えなかった。顔色がひどく悪い。


後ろに立っていた詩織が歩み寄ってきた。目が少し赤くなっている。


「リナ」


「お母さん……」


詩織は娘の手を握った。


その指は、氷のように冷たかった。


「私たち、日本に帰るわ」


リナは言葉を失った。


「日本に?」


「ええ」


「でも……来週帰る予定だったよね?」


「もともとはね」


詩織は、無理に笑顔をつくった。


「でも、もう待てないの」


リナは母を見つめた。


「いったい何があったの?」


詩織はすぐには答えず、ただそっと娘を抱きしめた。


「今は聞かないで。荷物をまとめて」


リナはリビングに散らばった書類を見て、それから父の険しい表情を見た。


この瞬間になって、ようやく本当に悟った。


自分たちの穏やかだった暮らしに、突然、ひどく深刻な問題が降りかかったのだと。


それからのことは、すべてが慌ただしく、混乱の中で過ぎていった。


詩織は荷造りを始め、ヴィクトルは電話をかけ続け、ときどき手を止めては書類をめくった。


リナも何が起きているのか分からないまま、母に言われたとおり、自分の服を一枚ずつスーツケースに詰めていった。


マリアは眠りから覚め、寝ぼけ眼で、どうして今荷造りするのかと尋ねた。


誰も、まともに答えてやれなかった。


来週まで続くはずだったオーストリアの旅は、こうして強制的に早く終わりを迎えた。


一家は荷物を引きずって、急いで空港へ向かった。


空港は変わらず煌々と明るく、旅行客がスーツケースを引いて行き交い、頭上からは絶えずアナウンスが流れている。


けれどリナには、目の前のすべてが、ひどく現実味を欠いて見えた。


ほんの数時間前まで、自分はダヴィッドと一緒に、川の上の小さなボートに乗っていたのに。


今となっては、あの古い教室に戻れる日が来るのかどうかさえ、分からない。


一家はすぐに搭乗手続きを済ませた。飛行機が離陸したあとも、ヴィクトルと詩織はずっと険しい表情のままだった。


マリアはリナの隣にもたれて眠ってしまった。


リナは静かに座席に座り、ときどき低い声で言葉を交わす両親を見つめていた。


今夜何があったのか、もう誰も口にしなかった。


数時間後、飛行機が降下を始めた。


機体がわずかに揺れる。


「ご搭乗の皆様、当機はまもなく着陸いたします……」


リナは窓の外を見ていた。


そのとき――


飛行機が突然、激しく揺れた。


「ドン!」


機内に、一瞬で悲鳴が上がった。


リナは座席の肘掛けを、とっさにつかんだ。


次の瞬間、飛行機はまた激しく降下した。


機内はたちまち混乱に包まれた。リナが覚えているのは、最後にまばたきをしたとき、視界に飛び込んできた、おびえた顔で自分たちに覆いかぶさってくる両親の姿だけだった。


--


再び目を開けたとき、最初に感じたのは、まぶしい白だった。


白い天井、白いシーツ、そして空気に混じるかすかな消毒液のにおい。


何度かまばたきをして、ようやく視界がはっきりしてくる。


「……ここは?」


起き上がろうとしたが、体のあちこちが痛んだ。


ベッドのそばで、すぐに誰かが彼女の動きに気づいた。


「目が覚めましたね」


女性の看護師が歩み寄ってきた。


「先生を呼んできます」


リナは彼女を見つめたが、まだぼんやりしていた。間もなく医師が来て診察をしてくれたが、幸い、異常はなかった。


この慌ただしさが落ち着いたあと、リナは看護師のひとりを呼び止めた。


「ここは……病院ですか? 何があったんでしょうか?」


看護師は一瞬動きを止め、すぐに落ち着いた様子でどこかに電話をかけると、リナに言った。


「今、ソーシャルワーカーを呼びますから、少し待っていてくださいね。ごめんなさい、今は患者さんがとても多くて、一人ひとりにご説明する余裕がないんです」


リナはおずおずと手を引っ込め、うなずいた。頭はまだ完全には働いていなかったが、強い不安だけは感じていた。


しばらくして、制服姿の女性がやって来て、ベッドのそばに腰を下ろした。


「あなたは、二週間、昏睡状態だったんです」


「二週間……?」


リナは言葉を失った。


必死に思い出そうとする。


飛行機。


降下。


激しい揺れ。


それから……


何も思い出せない。


「両親と妹は?」


彼女はふいに尋ねた。


ソーシャルワーカーは、少しほっとした表情を見せた。


「妹さんは、もうだいぶ前に目を覚ましていますよ」


「どこにいるんですか?」


「この階にいます」


「無事ですか?」


「軽いけがだけです」


その言葉を聞いて、リナはようやく少しだけ息をついた。


「会えますか? お父さんとお母さんは?」


ソーシャルワーカーは、一瞬黙り込んだ。


そのわずかな間が、リナの胸に、不吉な予感を呼び起こした。


「その前に……」


ソーシャルワーカーの声は、とても静かだった。


「あなたに、お伝えしなければならないことがあります」


リナは彼女を見つめた。


「ご両親のことです」


部屋の中が、急にしんと静まり返った。


「……お父さんとお母さんが、どうしたんですか?」


ソーシャルワーカーは、すぐには答えなかった。


「リナさん、あなたのお父さんとお母さんは……」


彼女は言葉を切った。


「助かりませんでした」


リナは固まった。


「……何ですか?」


「本当に、お気の毒です」


「そんなはず、ありません」


リナの声は、かすかだった。


「昨日……」


彼女は言葉を止めた。


「違う……」


自分が二週間も昏睡していたことを、ふいに思い出した。


それでも、その言葉をどうしても理解できなかった。


「そんなはず……」


彼女は首を振った。


「お父さんは?」


「……」


涙が、何の前触れもなくこぼれ落ちた。


「きっと、何かの間違いです」


声が震え始める。


「二人は、ただ……ほかの病室にいるだけですよね?」


「リナさん……」


呼吸が、しだいに荒くなっていく。


「お母さんも……」


彼女はシーツを強く握りしめた。


「私たち、ついこの間まで……」


言葉は途中で途切れ、続けられなくなった。


「リナさん、本当に残念です。今回の事故は、本当に深刻で……」


ソーシャルワーカーは、崩れ落ちるリナの姿を見て、自分も目を赤くし、そっと彼女を抱きしめた。


涙が一粒、また一粒と、シーツに落ちる。


リナはようやく悟った。もう二度と、父の快活な笑い声を聞くことはできない。もう二度と、やさしい声で自分の名前を呼んでくれる人はいないのだと。


いつも楽観的で、いつも家族が笑顔でいられるよう努めていた父。


かつてピアノの前に座り、やさしく教えてくれた母。


二人はもう、いない。


もう二度と会えない。


リナはうつむき、両手で顔をきつく覆った。


「お父さん……お母さん……」


彼女は、ほとんど言葉にならないほど泣いた。


一方、マリアはまだ、何が起きたのか知らなかった。


彼女はリナより早く目を覚まし、けがも軽かったため、この間はたいてい病室の近くで過ごしていた。


病院には、同じくらいの年の子どもたちもいて、彼女はすぐに仲良くなった。廊下の床に座っておもちゃで遊ぶこともあれば、ほかの子たちと一緒に絵を描くこともあった。


彼女は、こんなことまで尋ねていた。


「お姉ちゃん、いつ起きるの?」


あるいは、


「パパとママ、いつ迎えに来るの?」


まだ、すべてが長い入院にすぎないと思っているようだった。


リナがようやくマリアに会えたとき、小さな女の子はすぐに駆け寄ってきた。


「お姉ちゃん!」


リナはしゃがみ込み、妹をぎゅっと抱きしめた。


マリアは嬉しそうに抱きついた。


「お姉ちゃん、起きた!」


リナは何も言わず、ただ強く抱きしめていた。


マリアは顔を上げた。


「わたしたち、いつおうちに帰れるの?」


リナの体が、かすかに震えた。どう答えればいいのか分からなかった。


なぜなら、よく分かっていたから。あの家には、もう自分たちは帰れないのだと。


---


事故のあと、両親の死で事態が終わったわけではなかった。それどころか、もっと長く続く別の嵐が、始まったばかりだった。


ヴィクトルが生前に関わっていた財務上の問題は、なおも続いていた。彼名義の財産の一部は差し押さえられ、家も、関連する債務と破産手続きによって処分された。


この一家のものだった暮らしは、わずか数日のうちに、すっかり打ち砕かれてしまった。



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