↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アンサンブル  作者: betty
PR
7/10

第七話 ドナウ運河


オールがそっと水に沈む。ダヴィッドが最初のひと漕ぎをすると、ボートはゆっくりと岸を離れた。


オールが水面に細く長い波紋を描く。ついさっきまですぐそこにあった岸が、少しずつ後ろへ遠ざかっていった。


「出発!」


マリアがはしゃいで叫んだ。


ダヴィッドは笑って、もうひと漕ぎした。


「ゆっくりね」


夜の川面は、昼間よりずっと静かだった。


両岸の灯りが水に映り、ボートが進むにつれて、ひとつひとつの灯りの影が船べりをすべっていく。


ときおり、夜風が水面を渡ってくる。


リナの黒髪が風にふわりと揺れた。彼女は手で髪を耳にかけ、静かに遠くを眺めた。


「きれい」


「でしょ?」


ダヴィッドはオールを漕ぎながら言った。


「前に、たまにここへ来てたんだ」


「ひとりで?」


「うん」


「だから、こんなに詳しいのね」


「だって、どこに行けばいいのか分からないことがよくあるから」


リナは笑った。


「それで、あちこち歩き回ってるのね」


「まあ、そんなところ」


「その癖、もう知ってるわ」


「今はもう直ったよ。少なくとも最近は、毎日ちゃんと学校に行ってるし」


リナは彼を見つめた。


「それは、本当ね」


マリアは舷から身を乗り出して、水に映る影を見ていた。


「お姉ちゃん、見て!」


「なあに?」


「灯りが、水の中にあるよ」


リナは下を見た。水面の灯りは波に引き伸ばされて細長くなり、ときどきオールにかき乱されて砕けた。


「きれいでしょ?」


「きれい」


マリアは嬉しそうに笑った。


ボートはさらに進んでいく。


少し離れたところにも、ほかのレジャーボートが浮かんでいた。二、三人ずつ乗ってしゃべっている人たちもいれば、静かに夜景を楽しんでいる人たちもいる。


岸辺の遊歩道には、肩を並べて散歩する二人連れの姿も見えた。


そのうちの一組、若いカップルが水際の近くに座っていた。女の子は男の子の肩にもたれて、二人でひそひそと話をしている。


マリアは、しばらく興味深そうに二人を見ていた。


「お姉ちゃん、あの人たちもボートに乗りに来たの?」


「たぶんね」


「じゃあ、お友達?」


リナは少し考えた。


「そうかもしれないわね」


ダヴィッドは思わず吹き出した。


「そんなに真面目に答えなくてもいいのに」


リナは彼をちらりと見た。


「じゃあ、あなたが答えて」


「僕?」


ダヴィッドはそのカップルを見た。


「僕にも分からないな」


「ほらね」


リナは笑った。


「結局、同じじゃない」


三人は声を上げて笑い、オールは何度も水に沈んだ。


「疲れない? 私が代わろうか?」


リナは舟の上で、少し遠慮がちに尋ねた。


「平気だよ。でも、君、漕げるの?」


ダヴィッドが笑って言う。


「……漕いだことない」


「じゃあ、僕に任せて。命の危険がありそうだから」


リナは怒った顔をしてみせたが、すぐに二人とも笑い出してしまった。


「この一か月ちょっと、あっという間だったみたい」


リナがふいに言い、ダヴィッドはうなずいた。


「うん」


「最初に来たときは、ここは何もかも知らない場所だと思ってた」


「今は?」


リナはあたりを見渡した。


「今は、もうたくさんの場所を知ってるわ」


彼女は少し間を置いた。


「全部、あなたが連れていってくれたのよ」


「まだ行ってない場所もたくさんあるよ」


「そうなの?」


ダヴィッドは笑った。


「今度また、連れていくよ」


リナは答えず、ただ水面を見つめていた。しばらくして、小さな声で言った。


「うん」


ボートは進み続ける。


二人はこの一か月ちょっとのことを、また話し始めた。


初めて出会った、あの古い教室。


初めてピアノに触れて、ダヴィッドがおたおたしていた様子。


彼の上達が並外れて早いと気づいたとき、リナが驚いたこと。


それから、マリアが毎日二人にまとわりついて、新しい曲を弾いてとせがんだこと。


「お兄ちゃん、お魚がいるよ」


マリアの突然の呼びかけが、二人の会話を遮った。


ダヴィッドは笑った。


「落ちないように気をつけてね」


「落ちないもん」


そう言うと、マリアはまた水面のほうへ向き直った。


けれど、しばらくすると、彼女の声はだんだん小さくなっていった。さっきまで興奮してきょろきょろしていたのに、あくびを繰り返すようになる。


リナは気づいた。


「マリア、疲れた?」


「ううん……」


彼女は目をこすった。


「まだ見たい……」


言い終わらないうちに、マリアはリナにもたれかかった。


「お姉ちゃん……」


「どうしたの?」


返事はなかった。


リナが見下ろすと、妹はもう目を閉じて眠っていた。


「寝ちゃった?」


ダヴィッドが声をひそめる。


「ええ」


リナは妹の頭をそっとなでた。


「今日は、はしゃぎすぎて疲れたのね」


ダヴィッドも、漕ぐ速さを落とした。


オールが水に入る音が、いっそうやわらかくなる。そのあとしばらく、二人はわざと声を低くしていた。


夜の川面は、ふたたび静けさを取り戻した。聞こえるのは、舳先が水を割るかすかな音と、遠くからときおり届く笑い声だけ。


リナは、膝の上で眠るマリアを見下ろした。


妹はぐっすり眠っていて、寝息は穏やかだった。リナはマリアの服を整えてやり、それから川岸を見上げた。


両岸の灯りは、変わらず水面に映っている。風が吹いて、ひんやりとした気配を運んできた。


「毎日こうだったらいいのに」


リナがふいに、ぽつりと言った。


ダヴィッドは彼女を見た。


「え?」


「なんでもない」


リナは微笑んだ。


「ただ、ここがきれいだなって思って」


「またいつでも来られるよ」


ダヴィッドは言った。


リナは彼を見た。


「……そうね」


二人は目を合わせて微笑んだ。このときばかりは、もう言葉はいらないようだった。


ダヴィッドは、さらにゆっくりとオールを動かした。


オールが水面をそっと撫で、細やかな水音だけを残す。遠くの灯りが水に映り、風と波にゆらゆらと揺れていた。


リナは眠る妹を見下ろし、それからまた周りを見渡した。


ふと、思った。きっとこれが、このオーストリア旅行でいちばん忘れられない夜になる。


未来の学校を見学しに来ただけのはずが、思いがけずダヴィッドと知り合った。毎日一緒にピアノを弾いて、おしゃべりして、あちこち歩き回って、今はこうして夜のボートに並んで座っている。


来週には帰らなければならないと思うと、胸の中に、ほんの少し名残惜しさが生まれた。


ダヴィッドも同じだった。


彼は穏やかな水路の先を見つめながら、胸の中に、言葉にならない満ち足りた気持ちを抱いていた。


これまでの彼は、毎日がどれも似たようなものだと思っていた。


勉強して、家に帰って、ときどきひとりでふらふら出歩く。


けれどこの一か月半は、毎日、楽しみにできることがあるように思えた。


そして今、リナが隣に座り、マリアは静かに眠っている。


特別なことは何も起きていないのに、これでいい、と思えた。


二人はそれぞれ自分の思いにふけり、どちらも口には出さなかった。ただ、ときどき目が合うと、示し合わせたように、淡い笑みを浮かべた。


ボートはゆっくりと進んでいく。夜風が頬を撫で、水面のひんやりとした気配を運んでくる。


その瞬間、二人はこの夜を格別に温かく感じていた。


時間がもう少しだけゆっくり流れてくれれば、この夏がずっと続いてくれるかもしれない。


ボートはぐるりとひと回りして、やがてゆっくりと岸に戻ってきた。


ダヴィッドが先に降り、それから、眠っているマリアを慎重におぶった。


「私が代わるわ」


リナが言った。


「大丈夫」


ダヴィッドは背中のマリアを少し背負い直した。


「この子、軽いから」


「本当に平気?」


「うん」


二人は岸辺に沿って、約束の場所へ歩き出した。マリアはダヴィッドの背中におとなしく身を預け、目を覚ます気配はまったくなかった。


夜の闇が通りを包んでいる。


リナはダヴィッドの隣を歩き、ダヴィッドは黙ってマリアを背負っていた。


しばらく歩くと、ダヴィッドがふいに足取りを緩めた。


彼は隣のリナを見た。


新学期が始まれば、二人はそれぞれの生活に戻る。リナは音楽学校に入り、自分も高校に通い続ける。


そうなれば、今のように毎日会うことは、もうできないかもしれない。


この一か月半を、このまま終わらせたくなかった。


せめて……


これからも彼女と友達でいたい。一緒に練習して、一緒に遊びに行って、ときどき会って話をしたい。


そう思ったとき、ダヴィッドはついに勇気を出した。


「僕……」


「プルルルル――」


リナの携帯電話が突然鳴り出した。彼女ははっとして、ポケットから携帯を取り出した。


「ごめんなさい」


ダヴィッドは足を止めた。


リナは画面に目を落とした。着信表示は――お母さん。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。