第六話 真夏の合奏
翌朝、リナは約束どおり、マリアを連れて学校へやって来た。
リナはふだんから聞き分けがよく、何をするにも分別があるので、詩織とヴィクトルはとても信頼していた。それに、学校は家からそれほど遠くない。二人は安心して、昼間はリナに妹の面倒を任せていた。
そうして、日々は一日、また一日と過ぎていった。
それから一か月半のあいだ、リナはほとんど毎日、マリアを連れて学校に通った。
午前中になると、ダヴィッドがあの古い教室にやって来る。
そしてリナは、本格的に彼にピアノを教え始めた。
基本の指使いさえおぼつかなかったところから、簡単な楽譜を見ながら、少しずつ旋律と伴奏を組み合わせて弾けるようになるまで。ダヴィッドの上達の速さに、リナは何度も驚かされた。
ときには、リナが短いフレーズを弾いて、ダヴィッドに真似させる。
ときには、彼女が隣に座って、耳を傾けながら、指使いやリズムを直していく。
マリアは、二人の練習を聴いていることもあれば、自分で割り込んで弾き始めることもあった。
まだ五歳なので、指の力も広がりも限られていて、弾ける曲も子ども向けの簡単なものが中心だった。それでも、短い曲ならいくつか、ひとりで最後まで弾き通せる。
しかも、覚えがとても早かった。
リナはときどき、ダヴィッドが練習している合間に妹へ少し指導をした。マリアはたいてい、一度聴いただけで旋律をすぐに覚えてしまう。
聴いたことのある曲を、自分で手探りで弾いてしまうこともあった。
ダヴィッドは、ときどき手を止めて彼女を見た。
「あの子、本当に五歳なの?」
「ええ」
リナはうなずいた。
「小さいころから、ピアノが大好きなの」
自分の名前が聞こえて、マリアはピアノの前から顔を上げた。
「わたしもすごいんだよ」
ダヴィッドは笑った。
「見れば分かるよ」
マリアは得意そうに笑い、それからまた顔を伏せて練習に戻った。
ダヴィッドも、いつも二人のそばにいるこの小さな女の子に、少しずつ慣れていった。
毎日リナに会いに来ることにも、慣れていった。
勉強が退屈でキャンパスをぶらついていただけの彼が、毎日早くから学校に来るようになった。
リナもまた、隣に生徒がひとり増えたことに、だんだん慣れていった。
マリアは、二人のあいだにいる、もうひとつの小さな存在になった。
リナがダヴィッドに教えているときは、マリアがそばでひとり練習している。ダヴィッドが休んでいるときは、彼女は彼の手を引っぱって、覚えたての曲を聴かせようとした。
三人のピアノの音が、古い教室の中に重なり合って響く。
リナの音は大人びて安定していて、ダヴィッドの音は、ぎこちなかった最初のころから、しだいになめらかになっていった。そしてマリアの、ときおり混じる幼い音色も、そこに織り込まれていく。
こうして三人は、いつしか不思議な関係を築いていった。
午後に練習がないときは、ダヴィッドがリナとマリアを連れて、近所を歩いた。
商店街で何か食べることもあれば、ただ通りを散歩するだけのこともある。マリアは何を見ても興味津々で、おもしろそうなものを見つけるたびに、姉の手を引いて駆け出した。
リナは妹のように活発ではなかったが、この時間をとても楽しんでいた。
彼女にとって、もともとは学校見学のためだけだったこのオーストリア旅行は、思いがけない、楽しい夏休みの思い出へと変わっていった。
そしてダヴィッドにとっても、この一か月半は、これまでの夏休みとはまるで違うものだった。
彼は初めて、毎日学校に行くのが待ち遠しくなった。
勉強のためではない。
ピアノのために。そして、いつもピアノの隣で辛抱強く教えてくれる、あの人のために。
ある日の午後、三人は学校へ戻る道を歩いていた。リナがふと言った。
「そうだ」
「うん?」
ダヴィッドは振り返った。
「私、来週、日本に帰るの」
ダヴィッドの足が、一瞬止まった。
「来週?」
「ええ」
リナはうなずいた。
「夏休みも、もうすぐ終わりだから」
マリアは姉の手を握ったまま、それほど大きな反応は見せなかった。
「日本に帰る」ということがどういう意味か、まだ本当には分かっていないのだろう。
けれどダヴィッドは、黙り込んでしまった。
この間ずっと、毎日学校でリナに会うのが当たり前になっていた。
彼女が日本に帰ってしまったら……
あの教室は、きっとまた元の静けさに戻ってしまう。
ダヴィッドはうつむいたまま、しばらく歩いた。何かを思いついたように、ふいに顔を上げる。
「あの……」
リナが彼を見た。
「どうしたの?」
ダヴィッドは、拳を少しだけ握りしめた。しばらくためらってから、ついに決心したように言った。
「明日の夜……空いてる?」
「明日? 空いてると思うけど」
リナは不思議そうに彼を見た。
「どうして?」
「連れていきたい場所があるんだ」
ダヴィッドは言った。
「ちょっと遠いんだけど」
リナはぱちくりとまばたきをした。
「どこ?」
「ドナウ運河」
「ドナウ運河?」
ダヴィッドはうなずいた。
「あそこ、夜がすごくきれいなんだ」
彼は少し間を置いた。
「近くにボートに乗れるところもあるよ」
リナは少し意外そうだった。
「ボート?」
「うん」
ダヴィッドは、どこか緊張しているように見えた。
「だから……」
彼は大きく息を吸い込んだ。
「明日の夜、一緒に行かない?」
リナは少し考えた。
「帰ってお父さんとお母さんに聞いてみるわ。許してもらえたら、あなたにメッセージを送るけど、それでいい?」
横で「ボート」という言葉を聞いたマリアが、わくわくした顔を上げた。
「ボート?」
「そう」
ダヴィッドは笑って言った。
「明日の夜、一緒に行かない?」
「行く! わたし、ボートに乗ったことないの!」
マリアはためらいもなく答えた。
「行きたい!」
「じゃあ、みんなで行こう」
ダヴィッドは快く請け合った。
マリアはたちまち嬉しそうな笑顔になった。けれどリナは、まだ少しためらっていた。
彼女は妹を見下ろした。夜に五歳のマリアを連れて、少し遠いところへ出かけるのは、やはり心配だった。
「でも……夜に連れ出すのは、ちょっと心配なの」
マリアの浮かれた表情が、一気にしぼんだ。
「行っちゃだめなの?」
「そうじゃなくて……」
リナは困ってしまった。
「夜だから、あなたが疲れちゃうんじゃないかって、お姉ちゃんは心配なの」
マリアはうつむいて、小さな声で言った。
「でも、行きたいの……」
ダヴィッドは、がっかりしている彼女を見て、慌てて言った。
「大丈夫」
二人が、そろって彼を見る。
「僕がちゃんと面倒を見るから」
ダヴィッドは真剣な顔で言った。
「ずっと見ててあげるし、勝手に走り回らせたりしない。本当に疲れたら、早めに帰ってきてもいいし」
リナはまだ迷っていた。ダヴィッドはさらに笑って言った。
「それに、君も一緒に来るでしょ?」
リナは、期待に満ちた妹の顔を見た。そして最後に、小さくため息をついた。
「分かったわ」
マリアがぱっと顔を上げる。
「本当?」
「お父さんとお母さんに聞いてみる」
「うん!」
マリアはまた嬉しそうな顔になった。
「それじゃ、私はもう帰るね」
リナはダヴィッドを見た。
「お父さんとお母さんが許してくれたら、夜にメッセージを送るわ」
「うん、待ってる」
二人は、そこで別れた。
夜、別荘に帰ると、リナは両親に事情を話した。詩織は話を聞き終えると、少し考え込んだ。
「ドナウ運河? 夜に?」
リナはうなずいた。
「ダヴィッドが、近くにボートを借りられるところがあるって」
詩織は娘を見て、それから隣で期待に満ちた顔をしているマリアを見て、思った。
「同い年の子どもたちだけだし、きっと大丈夫よね」
彼女はヴィクトルのほうを向いた。
「あなたが送っていってあげて」
詩織は笑って言った。
「待ち合わせの場所まで送って、三人が会えたのを確かめてから帰ってきてね」
ヴィクトルはうなずいた。彼は子どもたちが人と交流することに、もとから反対しない人だった。
「いいよ」
両親が承諾してくれたと知って、リナの顔にぱっと笑顔が広がった。
「ありがとう、お父さん、お母さん!」
部屋に戻ると、彼女は携帯電話を手に取った。少し考えてから、ダヴィッドにメッセージを送った。
「お父さんとお母さんが、いいって言ってくれたよ。明日の夜、会おうね」
ほどなくして、携帯が震えた。
「よかった! また明日!」
リナは画面のメッセージを見つめながら、思わず口元をほころばせた。




