第五話 ウィーンの散歩
こうして、一人が教え、一人が弾いているうちに、いつの間にか時間は午後になっていた。
リナは壁の時計に目をやった。
「もう一時過ぎね」
ダヴィッドも、彼女の視線を追って時計を見る。
「道理でお腹がすいたと思った」
リナもそこで、自分も少しお腹がすいていることに気づいた。
「私も」
ダヴィッドが立ち上がる。
「なにか食べに行かない?」
「どこに?」
「近くに商店街があるんだ」
彼は窓の外を指さした。
「小さな食べ物屋がいくつかあって、いい店を一軒知ってる」
「でも……」
リナは少しためらった。
「どうしたの?」
「あまりお金を持ってきてないの」
「大丈夫」
ダヴィッドは笑って言った。
「今日は僕がおごるよ」
「えっ?」
「ピアノを教えてくれたお礼ってことで」
「そんな、いいわよ」
「いいから」
ダヴィッドはごく自然に言った。
「そんなに高いものじゃないし」
リナは少し考えて、最後にうなずいた。
「それじゃ……ありがとう」
二人は学校を出た。ダヴィッドは、リナの家とは反対の方向へ歩いていく。
「こっち?」
「うん」
「この辺りにレストランがあるの?」
「ちょっと歩くけどね。君は昨日、反対側のほうに歩いてた?」
「ええ」
リナはあたりを見回した。
彼女にとって、この辺りの街並みはまだ見慣れないものだった。
通りの両側に並ぶ建物は、ウィーンらしい古典的な雰囲気をまとっている。沿道の店はどれも小ぶりで、ときおりテラス席も見かけた。建物の合間から日差しが落ち、人々が三々五々、通りを行き交っている。
ダヴィッドは隣を歩いていた。この一帯のことは、よく知っているようだ。
「よく来るの?」
「うん」
「だから、いろんな場所を知ってるのね」
「勉強がはかどらないとき、よくあちこち歩き回ってるから」
リナはくすりと笑った。
「それが、あなたの勉強法なのね」
「まあ、そんなところかな」
しばらくして、二人は一軒の小さな店にたどり着いた。店にはシンプルなメニューがいくつか掛かっていて、ダヴィッドは慣れた様子でソーセージを二人前注文した。
ほどなく、湯気の立つソーセージが運ばれてきた。こんがりした黄金色の皮には、ほんのり焦げ目がついている。横にはパンとマスタードが添えられていた。
「ヴュルステル」
ダヴィッドが皿を指さす。
「ウィーンのソーセージだよ」
リナはにっこり微笑んだ。父がオーストリア人なので、彼女もオーストリアの食べ物はいろいろ知っている。
けれど母は、こういうものはあまり健康によくないと考えていて、めったに食べさせてくれなかった。だから、ソーセージがどんな味だったか、もうほとんど覚えていない。
リナはフォークを手に取り、そっとひと口かじった。
「ん……」
しばらく噛んでから言った。
「おいしい」
「でしょ?」
ダヴィッドは得意げな顔をした。
「この辺りでは、この店がいちばんよく来るんだ」
二人は食べながら、おしゃべりを続けた。学校の話になると、ダヴィッドはまた、両親に予習を言いつけられていることをぼやき始めた。
「母さんが昨日、今日は最低でも数学は終わらせなさいって言ってたんだ」
「それで、やったの?」
「やったよ」
「本当?」
「……十分だけ」
リナは思わず笑ってしまった。
「それから?」
「それから、図書館の外に出た」
「ひどい生徒ね」
「でも、今日は午前中ずっとピアノを習ってたよ」
ダヴィッドはいかにも当然といった顔で言い、リナは彼を見つめた。
「それは予習じゃないわ」
「でも、少なくとも時間の無駄じゃなかった」
「それは、そうかもね」
リナは笑いながら、うつむいてソーセージをひと口食べた。しばらく話したところで、ダヴィッドがふいに尋ねた。
「君って、何歳からピアノを弾いてるの?」
リナはきょとんとして、首を横に振った。
「すごく小さいころからよ。何歳だったかは、もう覚えてないの」
「じゃあ、好き?」
「好きよ」
彼女は迷わなかった。ダヴィッドはうなずく。
「見てて分かるよ」
「どうして?」
「ピアノを弾いてるときは、今とはちょっと違うから」
リナは少し目を見開いた。
「違う?」
ダヴィッドは考え込んだ。
「ふだんは、わりとおとなしそうに見えるけど」
「でも、弾いてるときは……」
彼はうまい言葉が見つからないようだった。
「すごく自由な感じがする」
リナはしばらく黙っていた。
「……ありがとう」
彼女はうつむいて、口元にほんのり笑みを浮かべた。しばらくして、ふと何かを思いついたように顔を上げる。
「そういえば」
「うん?」
「たぶん、お母さんが私に絶対音感があるって気づいてから、ピアノを習わせてくれたんだと思う。お母さんはピアニストなの」
ダヴィッドはきょとんとした。
「絶対音感? それって何?」
リナは少し考えて、分かりやすい言い方で説明した。
「簡単に言うと、ほかの音を基準にしなくても、今聞こえた音が何の音かすぐ分かるの」
彼女は、テーブルの上のコップを指さした。
「たとえば、今みたいに」
ダヴィッドは興味津々で彼女を見る。
「今?」
リナはガラスのコップを軽くたたいた。澄んだ音が響く。
「この音はピアノの音じゃないから、そのままどの音だって言い切ることはできないの。
でも、ピアノやほかの楽器、それにはっきりした音の高さがあるものなら、たいていはすぐに分かるわ」
ダヴィッドは驚いた顔をした。
「じゃあ、どんな音を聞いても分かるの?」
「どんな音でも、ってわけじゃないわ」
リナは笑って首を振った。
「車とか足音とかは、もちろん分からないもの」
「なんだ」
ダヴィッドはほっと息をついた。
「僕がくしゃみしても、何の音か分かっちゃうのかと思った」
リナはきょとんとしたあと、思わず吹き出した。
「あなたのくしゃみに、本当に決まった音の高さがあるなら、試してみてもいいけど」
「じゃあ、もう君の前ではくしゃみできないな」
二人は声を上げて笑った。
食べ終わると、ダヴィッドはリナを連れて、近くをしばらく散策した。
彼は自分のよく知っている小道をいくつも通り抜けて、近所の店を紹介してくれた。ただ店の前を通りかかっただけでも、ひとこと、ふたこと、何か話してくれる。
「この店のアップルシュトゥルーデル、おいしいんだ」
「本当? それなら今度、一緒に食べましょう」
ダヴィッドはうなずいた。
「いいよ」
リナは歩きながら、周りの景色を眺めていた。
ありふれた通りでしかないのに、オーストリアにほとんど来たことのない彼女には、どこか新鮮に映った。
ここは、彼女の慣れ親しんだ日本とはまるで違う。そしてダヴィッドは、こういう暮らしにすっかり慣れているようだった。
「ウィーンに来て三年になるのよね? もうだいぶ詳しいの?」
「まあまあかな」
ダヴィッドは少し考えた。
「でも、行ったことのない場所もたくさんあるよ」
「そうなのね」
リナは前を見つめた。
「なんだか面白いなって」
「何が?」
「こうして、あちこち歩き回るの」
彼女は笑って言った。
「マリアもいたらよかったのに」
「マリア? ああ、あの小さい子?」
「そう」
リナはうなずいた。
「きっと、ここを気に入ると思うの」
彼女は少し考えて、また尋ねた。
「今度、マリアも一緒に連れてきていい?」
ダヴィッドは、深く考えずに答えた。
「もちろん」
「よかった!」
彼は笑ってうなずいた。小さい子は元気がありすぎるけれど、ちゃんと面倒を見られる自信はある。
「三人で遊んでも、きっと大丈夫だよ」
時間はしだいに夕方に近づき、二人は学校の近くまで戻ってきたところで、別れることにした。
リナは交差点に立ち、楽譜入れのバッグを背負っていた。
「それじゃ、私はもう帰るね」
「うん」
ダヴィッドは手を振った。
「じゃあね」
リナは振り返って歩き出そうとして、ふと足を止めた。
彼女は振り向いた。
「ダヴィッド」
「うん?」
リナは彼を見つめた。
「明日も、学校に来る?」
ダヴィッドはきょとんとした。
彼は普段、前もって予定を決めることなどなかった。毎朝起きて、気分がよければ図書館へ行き、勉強したくなければ図書館へ行くふりをして、実際には友達を誘ってボール遊びに出かける。
けれど今、リナにそう聞かれて、彼はほとんど考えることもなかった。
「行く」
彼は言った。
「これから毎日行くよ」




