第四話 先生と生徒
リナは横にずれて、ピアノの椅子に場所を空けた。
「ここに座って」
ダヴィッドは腰を下ろした。目の前の鍵盤を見つめる表情は、好奇心と少しの緊張が入り混じっている。
リナはその隣に座った。
「まずは曲を弾こうとしなくていいわ」
彼女はダヴィッドの右手をそっと持ち上げて、指が自然に丸くなるようにした。
「手は、あまりこわばらせないで」
「緊張してるんだよ!」
「見れば分かるわ」
リナはくすりと笑った。
「小さなボールを握っているところを想像して」
「ボール?」
「ええ」
彼女は自分の手の形を見せた。
「指は自然に曲げて、手首は下げすぎないの」
ダヴィッドが言われたとおりにすると、リナはしばらくじっと見ていた。
「いいわね」
「これでいいの?」
「ええ」
彼女は鍵盤を指さした。
「まずは五本の指から始めましょう」
リナは右手を、真ん中あたりの五つの白鍵に置いた。
「親指が一、人差し指が二、中指が三、薬指が四、小指が五」
「一から五?」
「そう」
そう言いながら、彼女は五つの音を順番に弾いた。
「ド、レ、ミ、ファ、ソ」
澄んだ音が、がらんとした教室に響いた。
「今度はあなたの番」
ダヴィッドは手を置いた。
「ド、レ……」
最初の二つはうまくいったが、三つ目で指が少し止まった。
「焦らないで」
リナが声をかける。
「手の位置を、音ごとに動かさないようにするの」
「あ、うん」
ダヴィッドはもう一度やり直した。
今度は、五つの音がなめらかにつながった。
リナはうなずいた。
「悪くないわ」
「これだけ?」
「まだ始まったばかりよ」
リナは笑って言った。
「次は左手」
「左手も同じなの?」
「指の番号は同じ」
リナは一度やって見せた。
「ただ、向きが逆になるだけ」
ダヴィッドが弾いてみると、左手はやはり右手より不器用で、音をひとつ間違えてしまった。
「あっ」
「大丈夫」
リナは責めなかった。
「最初は誰でもそうよ」
彼女はもう一度やって見せる。
「手全体じゃなくて、指を見て」
ダヴィッドはうなずいた。
もう一度。今度は、さっきの間違いをすぐに直せた。
リナは彼の手を見つめた。
「……」
彼女はすぐには何も言わなかった。
「どうしたの?」
ダヴィッドが振り向く。
「ううん、何でもない」
リナは小さく首を振った。
「ただ、飲み込みが早いなって」
「そう?」
「初めて弾く人は、たいてい指が互いにつられやすいの」
リナはダヴィッドに、簡単な五指の音型を弾かせてみた。
「特に、三の指と四の指が」
ダヴィッドは言われたとおりに弾く。
「でも、あなたは指がちゃんと分かれて動くのね」
彼女は少し間を置いた。
「それはいいことよ」
「じゃあ、僕の指が器用だってこと?」
「たぶんね」
リナは少し考えた。
「少なくとも、思っていたよりずっといいわ」
ダヴィッドは笑った。
「それって、僕、才能あるんじゃない?」
リナは彼を見た。
「そう言うのは、まだ早いわ」
「厳しいなあ」
「だって、始めたばかりだもの」
彼女も笑った。
「続けましょう」
リナは次に、いちばん基本的な音階を教えた。
「ハ長調」
「それって何?」
「いちばん基本の音階よ」
彼女はまず、ゆっくりやって見せた。
「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、ド」
三つ目の音を弾いたあと、彼女の親指が他の指の下をくぐり、手の位置が自然に移動した。
「ここ、見えた?」
「うん」
「中指でミを弾いたら、親指を下からくぐらせるの」
彼女はもう一度やって見せる。
「これは指くぐりっていうのよ」
ダヴィッドは彼女の手をじっと見つめた。
「やってみる」
彼は弾き始めた。
ド。
レ。
ミ。
指が一瞬止まる。
親指がくぐる。
ファ。
ソ。
ラ。
シ。
ド。
最後の音が落ちると、リナは軽く目を見開いた。
「本当に、今まで一度も弾いたことなかったの?」
「全然ないよ」
リナは彼を見つめた。
十五歳で初めてピアノに触れる人は、たとえ指そのものが器用でも、指使いに慣れるまで時間がかかるものだと思っていた。
けれどダヴィッドの上達の速さは、予想を超えていた。特に今の親指のくぐらせは、まだ未熟ではあるものの、少なくともぎこちなくこわばってはいなかった。
「もう一回」
「うん」
二回目。
ダヴィッドは一回目より、なめらかに弾けた。
「いいわね」
リナはうなずいた。
「じゃあ、今度は目を閉じて」
「えっ?」
「本当に閉じなくていいの」
リナは笑って言った。
「ずっと手を見つめなくてもいいようにする、ってこと」
「それ、難しくない?」
「だから練習するの」
彼女はいくつかの音を弾いてみせた。
「聴いて」
ド、ミ、ソ。
「この三つの音を探してみて」
ダヴィッドは鍵盤にちらりと目を落とした。
「これ?」
彼はそのうちのひとつを押した。
「そう」
「これ?」
「そう」
「これ?」
「そう」
リナはうなずいた。
「耳もいいのね」
「それも分かるの?」
「初心者でもある程度は聞き分けられるけど、あなたは反応が早いわ」
ダヴィッドは少し得意げになった。
「やっぱり僕、本当に才能あるんだな」
「あまり早く調子に乗らないの」
リナは笑って言った。
「ここから先が、少し面倒なんだから」
彼女は両手を鍵盤の上に置いた。
「両手を一緒に弾くのよ」
ダヴィッドはきょとんとした。
「今から?」
「ええ」
リナは、ごく簡単な両手の練習曲を弾いた。右手が旋律で、左手は規則正しい低音を保っている。
「左手は、右手につられて動かないで」
「でも、両方一緒に弾くんじゃないの?」
「一緒に、だけど、同じことをするわけじゃないの」
リナは辛抱強く説明した。
「右手はこっち、左手はこっちを受け持つのよ」
彼女はそれぞれ別々に弾いてみせた。
「まず、自分の拍をしっかり覚えて」
ダヴィッドはうなずいた。
「分かった」
「ゆっくりね」
リナが最初の音を弾く。
ダヴィッドも続けて弾いた。
二つ目、三つ目、そして四つ目の音で、ダヴィッドの左右の手が突然ぶつかった。
「あっ」
彼は手を止めた。リナは思わず笑ってしまった。
「それが普通よ」
「さっきはちゃんとできたのに」
「片手と両手は、まったく別のことだから」
彼女はもう一度弾いてみせた。
「両手を一緒に弾こうと思わないで」
「じゃあ、何を考えればいいの?」
「二人の人が同時に話してるって考えるの」
ダヴィッドは彼女を見た。
「話してる?」
「ええ。右手は右手のことを話して、左手は左手のことを話すの」
「そして、あなたはそれを同時に聞き取るのよ」
ダヴィッドは考え込んだ。
「なんか、ちょっと難しそう」
「だから、ゆっくり練習するの」
リナは彼と一緒に、最初からやり直した。今度は、速さをとてもゆっくりにした。
ダヴィッドは全神経を集中させていた。
最初は、まだ何度か小さなミスがあった。けれど、リナが問題点を指摘するたびに、彼はすぐに修正できた。
しばらくして、簡単な両手の練習が、ついに最後まで通して弾けた。
自分が奏でた音が耳のまわりを包み込む。ほんの簡単な練習にすぎないのに、気がつけば、ずいぶん長く座っていた。
不思議なことに、普段勉強しているときのような、じっとしていられない感じは少しもなかった。
それどころか、ずっと集中していた。
さっきは間違えるたびに、もう一度やり直したくなった。リナが新しいコツを教えてくれるたびに、すぐにできるかどうか試してみたくなった。
これが、彼にとって初めて、ひとつのことにこんなにも強い興味を持った瞬間だったのかもしれない。
最後の音が落ちて、ダヴィッドは顔を上げた。
「こんな感じ?」
「ええ」
リナは笑ってうなずいた。
「初めてでこんなに早く合わせられるなんて、すごいわ」
「僕、けっこう才能あるんじゃない?」
ダヴィッドは、明るい笑顔を見せた。
「今日はもう三回目よ、それを聞くの」
得意げな彼を見て、リナも思わず笑い出した。
「だって、君がずっと、飲み込みが早いって言うから」
「それもそうね」
彼女はダヴィッドの手を見つめた。
「少なくとも、手指の協調性は本当にいいわ」
「十五歳から始めるのって、やっぱり遅いのかな?」
「小さいころから習ってる人と比べたら、もちろん遅いわ」
リナは少し考えた。
「でも、遅いからって、身につかないわけじゃない」
彼女は鍵盤を見つめた。
「ただ、いろんなことを一から作り直さなきゃいけないの」
「たとえば?」
「指の独立性、譜読み、リズム感、それから両手の協調」
リナは指を折って数えた。
「特に、指のコントロール」
「でも、さっき僕の指はいいって言ってたよね?」
「ええ」
彼女はうなずいた。
「だから、ちょっと意外だったの」
リナは自分の楽譜を開き直した。
「本気で習いたいなら、きっとすぐに上達すると思う」
ダヴィッドは目の前のピアノを見つめた。
「僕、どこまでできるようになるかな?」
「それは、どれだけ時間をかけられるか次第ね」
「毎日練習したら?」
リナは少し考えた。
「ひと夏あれば……」
彼女はダヴィッドを見た。
「簡単な曲なら、一曲は弾けるようになると思うわ」
ダヴィッドの目が、ぱっと輝いた。
「本当?」
「ええ」
リナは笑ってうなずいた。
「ただし、サボらなければの話よ」
ダヴィッドはたちまち、後ろめたそうな顔になった。リナは彼を見つめた。
「昨日、勉強が退屈だからって抜け出して、ぶらぶらしてたんじゃなかった?」
「それとこれとは別だよ」
「どこが別なの?」
「勉強は退屈だけど、ピアノは退屈じゃない」
リナはきょとんとしたあと、ふっと笑った。
「それなら、いいわ」
彼女はもう一度鍵盤に手を置き、振り返ってにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、続けましょう」




