第三話 ある男の子
リナがマリアの手を引いて校長室に戻ると、詩織はすぐに駆け寄ってきた。娘が無事だと分かって、まずはほっと息をつく。それからしゃがみ込んで、マリアの顔を見た。
「もう、迷子になんてならないって自信満々で、ママにトイレまでついてこなくていいって言ったのは誰だったかしら?」
マリアはうつむいたまま、ひと言も言えない。リナはそばに立って、妹が母に叱られる様子を見ながら、困ったように笑うしかなかった。
「まあまあ、とにかく今は見つかったんだし」
ヴィクトルも横で笑いながら言った。
「それに、自分でお姉ちゃんを見つけたんだから」
詩織は夫をちらりと見た。
「あなたはこの子の味方をしないで」
「はいはい」
ヴィクトルはすぐに両手を挙げて降参した。
マリアはこっそり顔を上げて、リナを見た。リナはぱちりとウインクを返した。マリアはそれで、ようやく少し安心したようだった。
一家は校長室でしばらく過ごしたあと、学校を後にすることにした。
ヴィクトルは校長と、さらに二言三言、別れの挨拶を交わした。
「それでは、我々はこれで」
「ええ、お気をつけて」
「また今度、ゆっくり話しましょう」
一家は校長に挨拶をして、学校を出た。
車は市街地を離れ、近くの住宅街へと走っていった。しばらくすると、道沿いに一軒の別荘が見えてきた。ヴィクトルのオーストリアの家だ。
一家は普段、おもに日本で暮らしているが、ヴィクトルはときどき母国へ休暇に戻ってくる。そのため、ここにも住まいがひとつあり、リナも以前、二、三度来たことがあった。
だから彼女にとって、ここはまったくの見知らぬ場所というわけではなかった。
夜。
夕食を終えると、リナは自分の部屋に戻り、ほかの家族はリビングでおしゃべりをしていた。
リナはベッドに横になったけれど、なかなか眠気がやってこない。天井を見つめていると、いつの間にか、今日の午後のことがまた頭に浮かんできた。
あの男の子と、彼が去りぎわに尋ねた言葉。
――「君は、これからもここでピアノを弾くの?」
リナは寝返りを打った。どうしてそんなことを聞いたのか、よく分からなかった。
けれど、すぐにあの古い教室のことを思い出す。
あの古いピアノ。
静かな教室、午後の日差し、窓から吹き込む風。できることなら、本当にもう一度あそこで弾いてみたい。
リナは体を起こし、しばらく考えてから、部屋を出た。
リビングでは、ヴィクトルがまだ起きていた。
「お父さん」
「うん?」
ヴィクトルが振り向く。
「ひとつ聞いてもいい?」
「もちろん」
リナは少しためらった。
「明日、学校のあの教室でピアノを弾いてもいい?」
ヴィクトルはきょとんとした。
「今日見つけた、あの教室のことかい?」
リナはうなずく。
「うん。あそこのピアノ、すごく気に入ったの」
「そうか」
ヴィクトルは少し考えた。
「じゃあ、校長先生に聞いてみよう」
彼は携帯電話を取り出して、電話をかけた。事情を簡単に説明し、そのまま相手と少し話をする。
しばらくして、電話を切った。
「大丈夫だって」
リナの目が、ぱっと輝いた。
「本当に?」
「校長先生は、問題ないって」
「やった」
彼女ははっきりと嬉しそうな笑顔を見せた。
その瞬間の喜びは、自分で思っていたよりもずっと強かった。部屋に戻る途中、ふとダヴィッドのことを思い出す。
リナは思わず立ち止まった。
もし明日行ったら……またあの男の子に会えるかもしれない?
すぐに首を振ったけれど、胸の中には、いつの間にか小さな期待が芽生えていた。
翌朝。
「リナ、お父さんが送ろうか?」
朝食のとき、ヴィクトルが尋ねた。
リナは首を横に振った。
「ううん、いい」
「本当に?」
「うん」彼女は笑って言った。
「自分で歩いていきたいの」
別荘から学校までは二キロほど。リナにとっては、それほど遠い距離ではない。
オーストリアの夏は、涼しいとは言えないけれど、朝の日差しはまだそれほど強くなかった。
リナはカバンを背負い、ひとりで通りを歩いた。
そよ風が頬をなで、ほのかな暖かさを運んでくる。道の両側の木々が大きな影を落とし、ときおり自転車が脇を通り過ぎていった。
急ぐ気持ちはなく、道中の景色も心地よかった。
三十分ほど歩いて、リナは学校に着いた。
慣れた足取りでキャンパスに入り、昨日見つけたあの古い教室へ向かう。
扉を開ける。教室は、変わらず静まり返っていた。窓は半分開いていて、朝の日差しが差し込み、鍵盤を照らしている。
リナはピアノの前に座った。
軽く指を動かしてみる。昨日初めてここに座ったときは、ただ気ままに弾いただけだった。
でも今日は、弾きたい曲がある。
それは最近とても気に入っている曲、ショパンの「ワルツ第7番 嬰ハ短調 作品64の2」だった。
リナは鍵盤に手を置いた。
次の瞬間、音が響き出す。軽やかで、どこか優雅さを帯びた旋律が、がらんとした教室の中を流れていく。
指が鍵盤の上を軽やかに動く。
身体は音楽に合わせて自然にリズムを刻み、肩の力は抜け、手首はやわらかく安定している。日差しが横顔に落ち、窓の外では小鳥のさえずりが澄んで心地よく響いていた。
音色は、ときに軽やかに、ときにいっそうくっきりとしたリズムを帯びて、教室に響き渡る。
リナは完全にその中に没頭していた。
彼女は気づいていなかった――
窓の外に、ひとつの人影がそっと近づいていることに。
演奏は、あるフレーズの途中で止まった。
リナが次の音を弾こうとしたとき、視界の端に、窓の外の何かが映った。
彼女ははっとして、振り向く。
窓の外から、頭がひとつ、ひょっこりのぞいていた。
ダヴィッドが窓枠にもたれかかっている。
突然リナに気づかれるとは思っていなかったらしく、彼は少し照れくさそうな笑みを浮かべた。
二人は窓越しに数秒見つめ合い、先に口を開いたのはダヴィッドだった。
「また会ったね」
リナは、本当にここでダヴィッドにまた会うとは思ってもみなかった。
少しの間きょとんとしたあと、その顔に小さな驚きと喜びが浮かぶ。
彼女は慌ててピアノの前から立ち上がった。
「こんにちは。今日も勉強しに来たの?」
ダヴィッドは笑ってうなずいた。
両手で窓枠をつかみ、体をひょいと跳ね上げて、身軽に教室の中へ入ってくる。
その動きは、ほとんど音を立てなかった。着地のときも、ほんの少し膝を曲げただけで、ごく自然にすっと立ち上がった。
リナはその慣れた身のこなしを見て、思わずまばたきをした。
「あなた……いつもこうやって入ってくるの?」
「え?」
ダヴィッドはきょとんとした。
「いや、そんなことないよ」
彼は窓を見て、それからリナを見る。
「ただ、ここから入ったほうが早いと思って」
リナはこらえきれず、くすりと笑った。
「なるほどね」
ダヴィッドはピアノのそばまで歩いてきて、近くの席に腰を下ろした。
「もともとは図書館で勉強してたんだ」
「図書館?」
「うん」
彼はため息をついた。
「でも途中で退屈になっちゃって、また抜け出してきた」
リナは興味深そうに彼を見た。
「毎日そうなの?」
「毎日ってわけじゃないけど」
ダヴィッドは少し考えた。
「……まあ、だいたいね」
リナは小さく笑った。ダヴィッドも、否定するつもりはないようだった。
「僕は十二歳のときに、両親と一緒にオーストリアに来たんだ」
彼はゆっくりと話し始めた。
「両親の仕事の都合で、ここに引っ越してきて」
「あなたも十二歳のときに来たのね」
リナはうなずいた。
「じゃあ、もうここにはだいぶ慣れたでしょう?」
「うん、まあね」
ダヴィッドはそう言って、少し間を置いた。
「うちの親は、勉強にすごく厳しくて」
彼は困ったような表情を浮かべた。
「将来いい大学に入ってほしいらしくて、だから僕は進学実績がよくて、受験に力を入れてる高校に願書を出したんだ」
「そうなんだ」
ダヴィッドはうなずいた。
「最近は、先に高校一年の内容を予習しなさいって言われてて。それで図書館にこもってるんだ」
リナは彼を見つめた。
「頑張ってるのね」
「そうなんだよ」
ダヴィッドの表情が、いっそう困ったものになる。
「ちょっと先に勉強しておいたほうがいいって」
「それで、もう終わったの?」
「ううん」
ダヴィッドはきっぱりと首を振った。
「だって、退屈なんだもん」
あまりに当然のように答えるので、リナは思わず笑ってしまった。
「それで、ぶらぶら出歩いてるわけ?」
「うん」
「昨日も?」
「昨日も」
「今日も?」
「今日も」
二人はしばらく見つめ合った。
「あなたって、本当に……」
リナは言葉の続きを飲み込み、ダヴィッドも、ただ一緒に笑った。
「どうせ本は逃げないしね」
「でも、ご両親はそうは思わないんじゃない?」
「……たぶんね」
ダヴィッドは視線をそらした。リナはその様子を見て、おかしくなった。目の前の少年は、見た目はとても真面目そうなのに、いつも勉強の途中でこっそり抜け出してしまう。
彼女は少し考えて、尋ねた。
「それで、本当の趣味は何なの?」
ダヴィッドは固まった。
「趣味?」
「うん」
リナはうなずく。
「勉強以外に、特に好きなことはないの?」
ダヴィッドはしばらく黙った。うつむいて、考え込む。
「……考えたこともなかった」
暇なときは友達とサッカーをしたり、ゲームをしたりするけれど、それもただの暇つぶしにすぎない。
「ないの?」
「うん」
彼は首を振った。
「自分が何を好きなのかも、分からないんだ」
リナは彼を見つめたまま、すぐには答えなかった。やがて、視線が隣のピアノに落ちる。
「それなら、試してみない?」
ダヴィッドは彼女の視線を追った。
「何を?」
リナはピアノを指さした。
「ピアノを弾くの」
「えっ?」
ダヴィッドはすぐに首を横に振った。
「無理無理」
「どうして?」
「弾いたことないんだ」
彼は慌てて言った。
「本当に、一度もないんだよ」
リナは、少しあたふたしている彼を見て、口元をほころばせた。
「大丈夫」
彼女はもう一度ピアノの前に座った。
「とても簡単だから。私が手伝ってあげる」




