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アンサンブル  作者: betty
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第二話 古い教室のピアノ

リナはひとり、キャンパスを歩いていた。


午後のウィーンは、明るく穏やかな日差しに包まれている。そよ風が校内を吹き抜け、道の両脇の木々がやさしく揺れていた。枝葉の間から、ときおりさらさらと細かな音が聞こえてくる。木漏れ日が地面に、ゆらゆらと光と影を落としていた。


リナは歩きながら、周囲を眺めていた。


しばらく行くと、少し古びた建物が目に入った。教室のひとつは、扉がきちんと閉まっていない。


リナは足を止め、好奇心に駆られて中をのぞいた。


教室には誰もいなかった。


机と椅子がきれいに並び、窓は半分開いている。吹き込む風にカーテンがそっと揺れていた。そして教室の隅には、一台のピアノが置かれていた。


リナの視線が、ピアノに留まる。


彼女は少しだけ近づいた。


年季の入ったピアノだった。使い込まれた跡はあるものの、手入れは行き届いているようだ。


リナはしばらくそれを眺めていた。やがて、そっと手を伸ばし、鍵盤蓋に軽く触れた。


一方その頃。


ウィーン音楽芸術高等学校の図書館。


ダヴィッドは窓際の席に座っていた。机の上には数冊の本が置かれている。


けれど彼は、もうずいぶん長いこと同じページを見つめたままだった。


「……」


額を手で支え、目はどこかぼんやりしている。しばらくして、ついにこらえきれず、あくびをひとつした。


「退屈だな……」


ダヴィッドは小さくつぶやいた。


家が学校の近くにあるので、彼はときどきここへ勉強しに来る。けれど今日は、どうにも勉強する気分になれなかった。もうしばらく粘ってみたものの、結局は本を閉じた。


「ちょっと外を歩くか」


荷物をまとめて、図書館を出る。


建物を出ると、暖かな日差しが降り注いだ。彼は大きく伸びをした。頬をなでる風は、静かな図書館の中にいるよりずっと心地よい。


ダヴィッドは、あてもなくキャンパスを歩いた。しかし、いくらも行かないうちに――


「うっ……うぅ……」


かすかな泣き声が、耳に届いた。


ダヴィッドは足を止める。


「ん?」


声のするほうへ目を向けた。


廊下の向こう端に、五歳くらいの金髪の女の子が立っていた。目は赤く、頬には涙が伝っている。


女の子はしきりにあたりを見回していた。どこへ行けばいいのか分からないようだった。


ダヴィッドは歩み寄った。


「どうしたの?」


彼はドイツ語で尋ねた。


女の子が顔を上げる。見知らぬお兄さんに怯えたのか、しゃくり上げるばかりで答えない。


ダヴィッドはしゃがみ込み、女の子と目の高さを合わせた。


「迷子になっちゃった?」


女の子は鼻をすすって、こくりとうなずいた。


「うん……」


「お父さんとお母さんとはぐれたの?」


女の子は力いっぱいうなずく。


ダヴィッドはあたりを見回した。


ここは学校だし、こんなに小さい子をひとりにしておくのは、やはり危ない。


「じゃあ、警備室に連れていってあげる」


彼は手を差し出した。


「あそこなら、家族を探してくれる人がいるはずだよ」


女の子は彼の手をじっと見つめた。少しためらったあと、その手をぎゅっと握った。


二人は並んで、ゆっくりと廊下を歩き出す。


ダヴィッドは女の子を見下ろした。


「お父さんとお母さんの名前は、なんていうの?」


マリアは口を大きく開け、やがて絞り出すように言った。


「パパと……ママ」


ダヴィッドは苦笑いした。


「……とりあえず、警備室に行こうか」


ところが、いくらも進まないうちに――


どこか遠くから、ピアノの音がふっと流れてきた。澄んだ音色が、廊下を抜けていく。


ダヴィッドは立ち止まった。


「……ピアノ?」


隣の女の子も足を止めた。さっきまで涙に濡れていた顔が、突然変わる。


マリアが顔を上げた。


「お姉ちゃん……」


ダヴィッドは彼女を見る。


「え?」


マリアは答えなかった。ただ目を見開いて、遠くから聞こえるピアノの音に耳を澄ませている。


次の瞬間――


「お姉ちゃんだ!」


彼女は日本語で叫び、いきなりダヴィッドの手を振りほどいた。


「えっ?」


ダヴィッドが事態をのみ込むより早く、マリアはピアノの音のする方へ駆け出していた。


「待って!」


ダヴィッドは慌てて追いかける。


マリアは足が速かった。さっきまで泣いてどうしていいか分からなかったのが嘘のように、怖さなどすっかり忘れたようだ。


走りながら、彼女は叫び続けた。


「お姉ちゃん!」


ピアノの音が、どんどんはっきりしてくる。


二人は廊下をひとつ抜けた。


そしてマリアは、きちんと閉まっていない扉の前で立ち止まった。ピアノの音は、その中から聞こえてくる。


ダヴィッドも追いついた。


彼はマリアの後ろに立ち、教室の中をのぞいた。


午後の日差しが窓から斜めに差し込み、カーテンがそよ風にゆるやかに揺れている。光は床に落ち、そしてあのピアノの鍵盤蓋にも降り注いでいた。


ピアノの前には、ひとりの少女が座っていた。


リナだ。


彼女は完全に演奏に没頭していた。背筋は自然に伸び、肩の力は抜けている。腕も手首も、余計にこわばってはいない。


両手が鍵盤の上を滑らかに動く。ただ速く打鍵しているのではなく、旋律の起伏に合わせて、一音ごとに力の加減を操っていた。


あるときはささやくようにやわらかく、あるときは音が少しずつ重みを増し、響きがいっそう鮮やかになっていく。


音色は、がらんとした教室の中に響き渡った。高音は澄んで明るく、低音は旋律全体をどっしりと支えている。


窓の外からは、ときおり風が木の葉を揺らす音が聞こえた。けれどその小さな音は演奏を妨げることなく、むしろ午後をいっそう静かに感じさせた。


リナの表情は、集中していて穏やかだった。視線は鍵盤と楽譜の間にとどまり、フレーズの変化に合わせて、ときおりわずかに動く。


長年の練習が、数々の動作をとうに自然な習慣へと変えていた。指をどう動かすかなど、意識して考える必要はない。ひとつひとつの音は、何度も何度も慣れ親しんできたもののようだった。


それはほんの一瞬の出来事だったのに、ダヴィッドには一世紀もの時間が過ぎたように感じられた。


さっき図書館で感じていた疲れも退屈も、いつの間にか消えていた。


教室の中には、ピアノの音と、午後のそよ風がカーテンをかすかに揺らす音だけがあった。


「お姉ちゃん!」


マリアの呼び声が、二人の陶酔を破った。彼女はピアノの前の姉を見つめている。頬の涙の跡は、まだ完全には乾いていなかった。


リナの指が止まり、音がぴたりとやんだ。演奏から我に返ったように振り向くと、扉口に立つマリアが目に入った。


リナは一瞬きょとんとして、それから驚いた表情を浮かべた。


「どうしてここにいるの? お父さんとお母さんは?」


リナは日本語で、驚きながらマリアに尋ねた。


マリアはうつむき、両手で不安そうに服の裾をつかんだ。


「おしっこに行ったら……帰れなくなっちゃった」


マリアはぼそぼそとつぶやいた。


それを聞いたリナは、一瞬ぽかんとしたあと、あきれたようにため息をついた。


「お姉ちゃんを見つけられてよかったね」


彼女は椅子から立ち上がり、妹のそばへ行って、そっと頭をなでた。


リナはまだ何か言おうとしていたが、そのときになって、マリアの後ろに見知らぬ少年が立っていることに気がついた。


彼女は少し固まった。


「……え?」


そこでようやく、ダヴィッドの存在に気づいたのだ。


リナは、まさか他に人がいるとは思っていなかったらしく、少し驚いた様子だった。


けれどすぐに表情を整え、ダヴィッドに会釈した。


「こんにちは。あの、どちら様ですか?」


相手はアジア系の顔立ちに見えたが、リナはそれでも、礼儀正しくドイツ語で尋ねた。


ダヴィッドはそこで、ふいに我に返ったようだった。リナを見て、それからマリアを見る。


「君たちも日本人だよね?」


言ってから、あまりに唐突な質問だったと気づいたのか、慌てて説明を始めた。


「さっき外で、この子が泣いてるのが聞こえて、様子を見に来たんだ。迷子になったって言うから、警備室に連れていこうと思ってて……」


ダヴィッドは少し早口になっていた。


「そしたらこの近くまで来たところで、急にピアノの音が聞こえて、この子が……」


「だって、お姉ちゃんがピアノ弾いてるの聞こえたんだもん!」


マリアが横から突然口をはさんだ。


ダヴィッドは言葉を止める。


「うん、そういうこと」


マリアはうなずいた。


「だから走ってきたの」


「それで、僕が追いかけてきたんだ」


ダヴィッドが付け加えた。


リナはようやく、事の次第を理解した。マリアを見下ろし、それからダヴィッドへ視線を移す。


「そうだったんですね……」


彼女の口調がやわらいだ。


「ありがとうございます」


リナは心からダヴィッドに礼を言った。


「あなたがいなかったら、マリアがここにひとりでいたら、私、本当にどうしたらいいか分かりませんでした」


ダヴィッドは慌てて手を振った。


「いえいえ、ちょっと手を貸しただけだから」


そう言って、彼はもう一度、教室のピアノに目をやった。さっきの音色は、まだ頭の中に残っている。


「ところで、君はこの学校の生徒なの?」


リナは背後のピアノを一度振り返り、少し気恥ずかしそうにした。


「今年入学するんです。今日は見学に来ただけで……無断でピアノをお借りしてしまって、すみません」


話しながら、彼女の口調には申し訳なさがにじんでいた。


ダヴィッドはきょとんとした。


「あ、いや、僕もこの学校の生徒じゃないんだ」


リナが目を丸くする。


「え?」


「うん」


ダヴィッドは笑った。


「家がこの近くだから、いつもここに勉強しに来てるだけで」


彼はひと呼吸おいて、またピアノに視線を向けた。


「でも……」


「君のピアノ、本当に上手だった。すごいよ」


リナは少し驚いたようだった。急に褒められるとは思っていなかったのだろう。


「ありがとう」


彼女は、少し照れくさそうに微笑んだ。


そのとき――


「ピロン……」


携帯電話の着信音が突然鳴り響いた。


リナははっとして、ポケットから携帯を取り出した。画面には母の名前が表示されている。


「お母さん?」


彼女は電話に出た。


「もしもし?」


電話の向こうから、詩織の焦った声が聞こえてくる。


リナは数秒聞いただけで、表情が変わった。マリアは両親と一緒に学校見学に来ていたのだ。それなのに自分は、さっきまでピアノに夢中で、妹がどうやってここまで来たのかさえ忘れてしまっていた。


「あっ……」


リナはマリアを見下ろす。マリアも顔を上げて、姉を見つめていた。


「お母さん、マリアを探してたの?」


リナは慌てて電話に向かって言った。


「もう見つかったよ。マリアは私のところにいる」


彼女は教室の外に目をやった。


「うん、すぐ戻るね」


電話を切ると、リナはほっと小さく息をついた。


「お母さん、すごく心配してたみたい」


マリアがうつむく。


「ごめんなさい……」


リナはしゃがんで、やさしく頭をなでた。


「大丈夫。見つかってよかった」


そう言うと、彼女はマリアの手を取った。


「お父さんとお母さんのところに戻ろう」


マリアは素直にうなずく。


「それでは」リナはダヴィッドに軽くお辞儀をして、マリアの手を引いて歩き出した。


二人が扉口まで来たところで、リナはまた足を止めた。


教室のピアノを振り返る。ダヴィッドはまだ扉のそばに立っていた。


「今日は本当にありがとうございました」


「うん、またね」


リナはマリアを連れて、立ち去ろうとした。


彼女が背を向ける直前、ダヴィッドは思わず尋ねた。


「君は、これからもここでピアノを弾くの?」


リナは一瞬きょとんとした。ピアノを見て、それからダヴィッドを見る。


少し戸惑うような表情を浮かべたあと、ふっと微笑んだ。


「どうでしょう」


そう言い残して、彼女はマリアを連れて教室を出ていった。


足音が、少しずつ遠ざかる。


ダヴィッドはひとり、扉口に残された。教室はふたたび静けさを取り戻した。変わらないのは、窓の外の風が梢を揺らし、かすかな音を立てていることだけだった。



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