第一話 オーストリア
オーストリアに到着すると、レオポルト一家は荷物を引きながら空港を出た。
長時間のフライトを経たというのに、五歳のマリアはまったく疲れた様子がない。通路を出るなり、珍しい遊園地でも見つけたかのように、水色の瞳を大きく見開いてきょろきょろと辺りを見回した。
「わぁ……!」
軽やかな足取りで数歩駆け出すと、後ろの家族を振り返る。
「パパ! ここがオーストリア?」
マリアの父、ヴィクトルはカートを押しながら、娘の声に笑みをこぼした。
「そうだよ。あんなに長く飛行機に乗って、やっと着いたな。」
マリアは興奮して脇へ駆け寄ると、両手を広げてくるりと一回転した。
「着いたー!」
「マリア。」
後ろから、母・詩織の声が聞こえた。
厳しい口調ではないのに、マリアはぴたりと足を止めた。
詩織はゆっくり娘のそばまで歩み寄ると、しゃがんで、走ったせいで少し乱れた金色の巻き毛を整えてやった。
「あまり遠くに行っちゃだめよ。」
「でも……」
マリアは顔を上げ、小さな声で抗議した。
「ここ、すっごくひろいんだもん。」
「ママも知ってるわ。」
詩織はふわりと微笑んだ。
「でもね、空港は人がたくさんいるでしょう? パパやママとはぐれちゃったら、どうする?」
マリアはちょっと考えた。
「……みつけられない?」
「そう。だから走っちゃだめなの。」
マリアはおとなしくこくりとうなずいた。
「わかった。」
詩織は頭を撫でた。
「いい子ね。」
少し離れたところでその様子を見ていたヴィクトルは、思わず笑ってしまった。
「ははは、マリアはオーストリアに着いた途端、もう冒険の始まりか。」
詩織が彼をちらりと見上げる。
「あなたは笑ってる場合じゃないでしょう。」
「はいはい。」
ヴィクトルはすぐに笑いを引っ込め、わざとらしく真面目な顔でマリアに向き直った。
「マリア、ママの言うとおりだ。勝手に走っちゃだめだぞ。」
「パパも勝手に走っちゃだめだよ。」
「俺が?」
ヴィクトルは自分を指さした。
「俺は走らないさ、もちろん。」
マリアはじっと彼を見つめた。
「ほんとに?」
「ほんとだとも。」
「じゃあ、パパはわたしと手をつなぐの。」
ヴィクトルは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑って手を差し出した。
「よし。」
マリアはすぐにその手をぎゅっと握った。
一方、十五歳のリナは静かに母の隣を歩いていた。自分の荷物を押しながら、黒く美しい髪が歩調に合わせてかすかに揺れる。ときどき、空港の外の景色に目をやった。
彼女にとって、これはただの旅行ではなかった。
リナはすでにオーストリアの音楽の専門学校に合格している。一家が夏休みを利用してやって来たのは、彼女がこれから通う学校を見学するためだった。
そのことを思うと、リナの視線は思わずしばらくそこに留まった。
詩織は娘の視線に気づいた。
「リナ。」
「ん?」
リナは振り返った。
「疲れた?」
「ううん、大丈夫。お母さんとお父さんのほうが大変だったでしょう。」
リナは小さく首を振った。
墨色の瞳は穏やかで、それでいて温かい。隣にいる活発な妹とは、くっきりと対照的だった。
「オーストリアは久しぶりでしょう。どんな感じ?」
リナは少し考えた。
「……ちょっと、緊張してる。」
詩織は何も言わず、ただ優しく娘を見つめた。
ヴィクトルが横から笑って言う。
「緊張しなくていいさ。」
リナは父を見た。
ヴィクトルは彼女の肩をぽんぽんと叩いた。
「ゆっくりやっていけばいい。」
リナは父を見つめ、口元をほんのりほころばせた。
「うん。」
そのとき、前のほうからマリアの声が響いた。
「おねえちゃん!」
リナは振り向いた。
マリアはヴィクトルの手を握ったまま、もう片方の手をこちらにぶんぶんと振っている。
「はやくー!」
「いま行くよ。」
リナは荷物を押して後を追った。
一家そろって、空港の出口へと向かった。
ターミナルを出ると、ヴィクトルはまず荷物を確認し、それから一家は人の流れについて外へ進んだ。自動ドアを抜けると、正面から吹いてきた微風に、リナも詩織も思わず顔を上げた。
ヴィクトルはすぐに、あらかじめ手配しておいた車を見つけた。荷物をトランクに積み込み、一家は順に車へ乗り込んだ。
車はウィーンの街並みをゆっくりと進んでいく。
窓の外の景色は、日本とはまるで違っていた。午後の日差しが車窓から差し込み、明るいのにまぶしくない。夏の空は晴れ渡り、白い雲がいくつか、遠くでのんびりと浮かんでいる。道の両脇の木々が微風にそっと揺れ、ときおり数枚の葉が日差しを受けてほのかに光った。
ヴィクトルは助手席に座り、見慣れた街並みを眺めていた。
「ウィーンは相変わらずだなあ。」
気楽な笑みを浮かべる。
後部座席のマリアは窓にはりついて、興味津々に外を見ていた。
「パパ、あれなあに?」
「あれは教会だよ。」
「じゃあ、あれは?」
「あれは美術館だ。」
「あれは?」
ヴィクトルは振り返って見た。
「……あれは、ただのスーパーだな。」
マリアはぱちぱちとまばたきした。
「パパ、なんでも知ってるんだね。」
「当然だろう。」
ヴィクトルは得意げに笑った。
隣に座る詩織も、思わず小さく微笑んだ。
リナははしゃぐ妹の様子を見て、手を伸ばし、マリアの髪をそっと撫でた。
「マリア、初めてのオーストリアなのに元気いっぱいだね。」
「だって、ここはおうちとちがうんだもん!」
マリアは振り向いて、興奮気味に言った。
「おねえちゃん、そと見て!」
リナは彼女の指さす方に目をやった。
「うん、見えたよ。」
「きれい?」
「とってもきれい。」
リナは笑って答えた。
「このあと学校に着いたら、ゆっくり見られるよ。」
「うん!」
マリアは嬉しそうにうなずいた。
リナは妹を見て、もう一度そっと笑った。
今回のウィーン行きは、ただの旅行とは違う。ここは、これから彼女が音楽を学ぶ場所になるのだ。リナは何も言わず、ただ静かに、道中の景色を見つめていた。
しばらくすると、車は次第に速度を落とし……目的地に到着した。一家は車を降りた。微風が通りを吹き抜け、夏の午後ならではの温かな空気を運んでくる。リナが顔を上げると、目の前に、これから見学する学校があった。
「ウィーン音楽芸術高等学校」
キャンパスは日差しの中で、ひときわ明るく見えた。
校舎の外壁は午後の光に照らされ、窓は空の色を映している。敷地には木々がたくさん植えられ、枝葉が風に揺れて、かすかにさわさわと音を立てていた。
マリアは校門の前に立ち、興味深そうに顔を上げた。
「おねえちゃん、これからここの学校にかようの?」
リナはしゃがんで、妹と目線を合わせた。
「うん。問題がなければ、これからお姉ちゃんはここに通うんだよ。」
「じゃあ、わたしも来ていい?」
リナは笑った。
「もちろんいいよ。」
手を伸ばして、妹の頬にそっと触れる。
「でも、マリアが来るときは、パパとママの言うことをちゃんと聞くんだよ。」
「聞く!」
マリアは力いっぱいうなずいた。
「ほんとだよ!」
リナは妹の真剣な表情を見て、思わず吹き出した。
一家はキャンパスの中へ入っていった。
ヴィクトルは校長と旧知の仲で、先に家族を連れて挨拶に行く約束をしていた。
「久しぶりだな。」二人が最後に会ったのは十年以上も前のことだったが、それでもすぐに打ち解けた。
「リナさんはもうすっかり立派なレディだね。」校長はリナのほうを見た。
ヴィクトルは笑って、リナの肩を軽く叩いた。
「そりゃそうさ。この子はずっと楽しみにしてたんだ。」
リナは少し照れくさそうに、校長に頭を下げた。
「はじめまして。」
「こんにちは、リナ。」
校長は笑顔で応えた。
それから二人は話に花を咲かせた。近況に始まり、学校のこと、さらには共通の知り合いの話にまで広がっていく。ヴィクトルは相変わらず話し好きで、ときどき笑いながら言葉を挟み、校長もしばしば笑みをこぼした。
詩織は傍らで静かに耳を傾け、マリアは母の手を握ったまま、ときどき父を見上げ、また校長を見上げていた。
時間はこうして、ゆっくりと過ぎていった。
十分ほどたったころ、校長はリナがどこか上の空で、視線がそわそわと左右に泳いでいることに気づいた。
校長は微笑んだ。
「すまないね、こんな話では退屈だっただろう。先に校内を見てくるといい。今は夏休みだから、どこも自由に見学できるよ。」
リナは心を見透かされて少し決まりが悪くなり、両親のほうをちらりと見た。
ヴィクトルは彼女にうなずいた。
「行っておいで。」
リナは小さく返事をした。
「ありがとうございます。」校長に軽く会釈をすると、くるりと向きを変え、校長室を後にした。
午後の日差しはなおも暖かく、風が梢を渡り、枝葉がそっと揺れている。リナは歩きながら、これから自分の新しい生活の一部となる校内を、じっくりと眺めていた。




