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アンサンブル  作者: betty
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第十話 決意

改名してからほどなく、里奈は新しい名前に慣れた。


「里奈」の読みは、もとの名前と変わらない。だから自分では、あまり不便を感じなかった。麻里も同じだった。家ではもともと「マリ」と呼ばれることが多かったので、「麻里」に変わっても、何も違わなかった。


本当に変わったのは、むしろ二人の暮らしのほうだった。両親はもういない。今、二人は祖父の大介と三人で、長野のこの古い家に暮らしている。


ある日の夕方、里奈は台所で夕食の支度を手伝っていた。野菜を切りながら、今日の大介がやけに忙しそうなことに気づいた。午前中に一度出かけたと思ったら、午後にはまた段ボール箱をいくつも運び込み、玄関のあたりには道具や雑多な物が積まれている。


「おじいさん」


里奈は野菜を切りながら尋ねた。


「最近、ずっと何をしているの?」


大介は床にしゃがんで荷物を整理していたが、それを聞いて顔を上げた。


「見つかってしまったか」


彼は笑った。


「実はね、おじいさんは、お店を再開する準備をしているんだ」


「お店を再開?」


「ああ」


大介は手の埃をはたいて立ち上がった。今の年金に、いくらかの公的な補助を足しても、二人の子どもを養うのは少し苦しい。


「動けるうちに、また働こうと思ってね」


里奈は手を止めた。


「楽器店?」


「そうだよ」


大介は笑ってうなずいた。


「昔の『相田楽器』さ。ああ、でも名前は変えないといけないな」


「あのお店は、もう……」


「ずっと、人には貸さなかったんだ」


大介は少し照れくさそうに笑った。


「あのとき、お父さんに店を譲ってからも、店舗を人に貸すのがどうしても惜しくてね。それがまさか、今になって役に立つとは。ちょっと手を入れれば、また始められるはずだよ」


里奈はしばらく黙っていた。祖父の少し曲がった背中を見つめる。


「大変すぎない? おじいさんも、もう若くないんだし」


「はは」


大介は笑い出した。


「まだ、何もできなくなるほど年寄りじゃないよ」


けれど里奈は、一緒には笑わなかった。


「それなら、私も学校が終わったら手伝いに行く」


彼女は真剣な顔で言った。


「片付けも手伝えるし、お店の仕事もできるよ」


大介は彼女を見つめ、最後には、ただ小さくうなずいた。


「分かった」


---


店の改装は、しばらく続いた。


里奈は毎日、学校帰りに店へ寄って手伝った。棚を整理することもあれば、楽器を拭くことも、大介のために軽い荷物を運ぶこともあった。大介はときどき、疲れるだろうと気遣ったが、里奈はいつも笑って、平気だと答えた。


ところがある日、家に帰ると、大介の歩き方がどこかおかしいことに気づいた。


「おじいさん?」


里奈はすぐに気がついた。


「足、どうしたの?」


「ん?」


大介は自分の足を見下ろした。


「ああ、これか」


彼は何でもないというように手を振った。


「楽器を運んでいるときに、うっかり転んでしまってね」


「転んだ?」


里奈は眉をひそめた。


「大丈夫? 病院に行かなくていい?」


「平気、平気」


大介は笑って言った。


「年を取ったから、役に立たなくなっただけさ」


「おじいさん、そんな冗談は言わないで」


里奈の口調は、めずらしく厳しかった。


大介は一瞬きょとんとして、それから、笑顔がゆっくりと穏やかなものに変わった。


「ああ、分かった。気をつけるよ」


---


数日後。


里奈が学校から帰ると、麻里がまだ帰っていなかった。時計を見ると、いつもの帰宅時間を過ぎている。


「麻里、まだ帰ってないの?」


里奈は不思議に思った。少しためらったあと、上着を手に取って、そのまま幼稚園へ向かった。


幼稚園に着くと、先生は彼女を見るなり言った。


「相田さん。麻里ちゃんは、まだ中にいますよ」


「こんにちは。あの、何かあったんでしょうか?」


「いいえ、ご心配なく」


先生は微笑んだ。


「ただ、今日は帰りたくないみたいで」


「帰りたくない?」


里奈はきょとんとした。


先生は彼女を連れて、教室のほうへ歩いていった。


廊下の突き当たりから、ピアノの音が聞こえてくる。演奏は途切れがちで、明らかに間違えている音がいくつもあり、テンポも速くなったり遅くなったりした。ところどころで止まってしまうのは、次の音を一生懸命思い出そうとしているのだろう。


けれどその音色には、落胆の色はなかった。むしろ、純粋な喜びに満ちていた。


里奈は戸口で足を止めた。


麻里がひとりでピアノの前に座っている。小さな体が椅子にちょこんと乗り、足はまだ床に届いていない。真剣な顔で楽譜を見つめ、小さな両手が鍵盤の上を行ったり来たりしている。


詩織が生前、教えていた曲だった。


家で何度も耳にしたはずのメロディが、今は途切れ途切れになっている。


ひとつ間違えた。麻里は手を止めて、首をかしげてしばらく考えた。


それからまた弾き直したが、今度もやはり間違えた。けれど彼女はまったく気にせず、くすくすと笑い出した。


「ここは、こうだったかな……」


ひとりごとを言いながら、もう一度試す。いくつかの音がようやくつながったとき、麻里の目がぱっと輝いた。


「できた!」


彼女は嬉しそうに笑った。


それは、何の混じりけもない笑顔だった。里奈は戸口に立ったまま、ぼうぜんと妹を見つめた。


こんなふうに笑う麻里を見るのは、ずいぶん久しぶりだった。両親が亡くなってから、麻里は無邪気で元気な子のままではあったけれど、以前よりどこか静かになっていた。里奈はどう慰めればいいのか分からず、毎日が忙しくて、妹を気にかけてやる余裕もなかった。


けれど今の麻里は、そんなことをすっかり忘れている。


目の前にあるのは、ピアノだけ。自分の大好きな音楽だけ。


ひとつの、小さくて、まっすぐな願いだけ。


お母さんが教えてくれた曲を、最後まで弾きたい。


里奈の胸が、ぎゅっと締めつけられた。


「……お姉ちゃん?」


麻里が、ようやく戸口に立つ姉に気づいた。


「お姉ちゃん!」


彼女はすぐに椅子から飛び降りて、里奈のもとへ駆け寄った。


「どうして来たの?」


「迎えに来たのよ」


「でも、まだ弾き終わってないの」


麻里はピアノを振り返ったが、顔にはまだ笑みが残っていた。


先生が歩み寄ってきた。


「麻里ちゃん、最近は帰りがけに、残ってピアノを弾きたがることが多いんです。お家の事情も、私たちは少し聞いておりますので、もう少しいたいと言うなら、できるだけ見守るようにしています」


里奈はうつむいた。


「ありがとうございます。本当にご迷惑をおかけしてしまって」


「いいえ」


先生は首を振った。


「ピアノがとても好きで、それに本当に上手ですよ」


里奈は答えず、もう一度、そのピアノに目をやった。


---


帰り道、麻里は里奈に買ってもらったアイスキャンディーを手に、スキップしながら歩いた。里奈は静かにその隣を歩いている。


家に着くと、ついに我慢できなくなって、尋ねた。


「麻里」


「うん?」


「どうして家では弾かないの?」


麻里は足を止めた。


「だって……」


少し考える。


「ピアノの話になると、お姉ちゃんとおじいちゃん、なんだか変になるんだもん」


里奈は黙り込んだ。否定できなかった。麻里の言うとおりだったから。


妹がピアノの話をするたび、彼女は無意識に避けてきた。麻里がピアノを好きになればなるほど、将来、十分な環境が得られなくて苦しむことになるかもしれないと、分かっていたからだ。


それは、彼女自身がいちばんよく知っていることだった。いい先生、いい楽器、コンクール、演奏会、交通費……。どれもこれも、お金がかかる。


そして今の二人には、以前のような条件はもうない。だから、麻里には早めに諦めさせたほうがいいとさえ思っていた。せめて、希望を抱いたまま、最後に自分の手でそれを失わせることのないように。


けれど今日、彼女は初めて、自分が間違っていたかもしれないと思った。


ピアノを弾く麻里の表情を見たから。それはコンクールのためでも、メダルのためでもなく、すごいピアニストになるためですらなかった。


ただ、純粋に好きなだけ。あの笑顔は、里奈がもう長いこと見ていなかったものだった。


「麻里」


「なあに?」


里奈はしゃがんで、妹と目の高さを合わせた。


「これからは、家で弾きなさい」


麻里は目を丸くした。


「本当?」


「本当よ」


里奈は微笑んだ。


「ここに、ピアノの部屋があるでしょう?」


「これからは、私が教えてあげる」


「お姉ちゃんが教えてくれるの?」


「ええ」


「お姉ちゃんが、わたしのピアノの先生?」


「そうよ」


麻里はすぐに、ぎゅっと抱きついた。


「やったあ!」


里奈も妹を抱きしめた。今度は、麻里がピアノに近づくのを、もう止めなかった。


---


夕食のあと、大介は食卓を片付けていた。


「おじいさん」


里奈がふいに口を開いた。


「話したいことがあるの」


大介は顔を上げた。


「何だい?」


里奈は深く息を吸い込んだ。


「私、学校をやめたい」


大介の動きが止まった。


「……何だって?」


「楽器店を手伝いたいの。ちゃんと考えたよ。おじいさんの負担も減らせるし、麻里のピアノを見てあげる時間も、もっと取れるから……」


「だめだ」


大介は、ほとんど考える間もなく言った。


「店の仕事は、おじいちゃんひとりでやれる。それに、お前も麻里も、これから音楽学校に通えるように、おじいさんが何とかする。でもな、里奈。高校に行かないというのは、だめだ」


「おじいさん……」


「お前は、まだ十五歳だろう」


大介の口調が、初めて厳しくなった。


「お前の人生は、まだ始まったばかりなんだ」


里奈は唇をかんだ。


「高校は、あとからいつでも戻れるもの」


彼女の声が、しだいに震えてきた。


「でも、もしおじいさんが倒れたり、何かあったりしたら、私は一生後悔する」


目に涙がにじむ。


「私と麻里は、もう、これ以上家族を失いたくないの」


大介は言葉を失い、里奈は顔を上げた。


「それに、私はピアノを続けなくても平気。でも、麻里には続けさせてあげて」


「……」


「おじいさん、私は本当に大丈夫だから」


大介は彼女を見つめた。しばらくして、低い声で尋ねた。


「……でも、どうしてだ? お前は全国ジュニアピアノコンクールで、あんなに何度も優勝したじゃないか。妹のために、自分の才能を犠牲にすることはないんだよ」


里奈はしばらく黙っていた。それから、とても穏やかな笑みを浮かべた。


「おじいちゃん、私、今日見たの。麻里は……私やお母さんを超えるピアニストになるよ」


大介はぼうぜんと彼女を見つめた。


その瞬間、何と言えばいいのか分からなくなった。目の前の少女は、まだたった十五歳なのに。祖父を見つめるその眼差しには、少しの揺らぎもなかった。それは一時の衝動ではなく、長いこと考え抜いた末の決断だった。まだ子どもなのに、魔法のような説得力があった。


大介はようやく、うつむいた。長い間のあと、そっとため息をついた。


「……分かったよ」


彼は手を伸ばして、里奈の頭をなでた。


「でも、ひとつだけ約束してほしい」


里奈は顔を上げた。


「なあに?」


「これから何があっても、お前自身の人生も大切なんだということを、忘れないでおくれ」


里奈は答えず、ただ小さくうなずいた。


大介は彼女を見つめ、最後に自分もうなずいた。


「よし」


「それじゃ、一緒に頑張ろう」

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