第九話 列を動かす
建安二十年(西暦二一五年)二月。鄴から武都郡の下弁城まで、西に向かって一ヶ月かけて移動した。
景色を観る余裕などなかった。ただ、季節が進んだはずなのに、気温が下がっていて、高地に向かっていることだけは分かった。
下弁城に着いてすぐ、私は、人生で初めて軍行の列へ加わった。
夜明けの前、武都の山道は夜の春雨をまだ吐ききっていなかった。断崖絶壁に橋がかけられ、馬を降りて手で引いて渡った。
私は中軍の荷駄列についていた。先鋒は夏侯淵が率いていた。霧の切れ目に、ときどきその旗が見えた。
泥濘で車輪が沈むたび、荷車は鈍い声を出した。道は狭く、列のどこかで一台でも止まれば、後ろはみな止まった。
霧のせいで長い列の先は見えなかった。槍の穂先だけがところどころ白く浮いていた。
道の左側で、私は馬上から手綱を引き直し、山側へ馬を寄せた。
前の荷車が三台、泥濘に車輪を沈めて縦に続いていた。真ん中の一台だけ、右に傾いていた。車輪が回るたび、右の軸受けが湿ったような音を立てていた。
何度か口を開けては閉じた。小さく深呼吸し、できるだけ低い声で言った。
「一度、停まりましょう」
御者が顔を上げた。手綱を引き過ぎて、牛が首を振った。
私は馬を降り、二台目の荷車の脇へ出た。兵糧袋を縛っている麻縄に手をかけた。
「こっちを外してください。前の車へ半分移しましょう」
「将、今やれば列が――」
「このままだと軸受けが折れます」
言い切ると、御者は黙った。後ろの兵二人が荷に手をかけた。湿った麻袋は見た目より重く、持ち上げた拍子にひとつ泥へ落ちた。麻袋がさらに水を吸った。
私はそれを拾わせず、その袋だけ最後尾へ回させた。
「急げーっ!」
前方より怒鳴り声が上がった。御者が手綱を短く持ち直した。後ろの牛が鼻先を上げ、荷車との間が詰まりだした。荷車の車輪はすでに泥を噛みはじめていた。
私は斜面の土を靴先で削った。表だけが柔らかいのではなかった。下まで湿っていた。
――局所の速度低下で、列は渋滞する。
「枝を集めてください」
兵はすぐには動かず、道脇の枝と私の顔を見比べた。
「細いので良いので、できるだけ多く。道の真ん中に敷いてください。石も混ぜてください」
兵たちは、言われたまま、道脇から折れ枝を拾い、握りこぶし大の石を転がしてきた。先頭の荷車がその上を通る。車輪は沈んだが、むき出しの泥よりは浅かった。
――速度の増減は、牛と兵の疲労を増やす。
「伝令を前後へ。歩みを揃えること、それだけ伝えてください」
近くの兵にそう言って、私は馬へ戻った。
霧は薄くなったが、先は見えない状況は変わらなかった。見えるのは、近くの背と荷と槍だけだ。
また前から急かす声が飛んだ。夏侯淵の伝令だった。私は呼応しなかった。
――十分な間隔が、渋滞を防ぐ。
「急いではいけません。前との距離を保ってください」
そう言い続けて、急く兵たちを抑えた。
しばらくして、斜面の上で小石が跳ねた。
ひとつ、ふたつ。続いて三つ。
斜面を見上げて耳を澄ませた。土砂の崩れる音はなかった。
後ろの兵に手だけで合図し、盾を前へ出させた。次の瞬間、矢が降った。一本が荷車の木枠に立ち、もう一本が牛の肩をかすめ、牛が首を振った。御者が手綱を引こうとした。
「止まるな!」
私の声に、御者の肩がすくんだ。それを見て、声を抑えて言い直した。
「でも、走らせてもなりません。歩かせ続けてください」
「しかし……」
「矢は多くありません。自滅を誘っているだけでしょう」
兵の一人が崖側へよろけた。他の兵がその胸甲の紐をつかんで引き戻した。兵は青ざめたまま槍を握り直した。
この間も私は、斜面から目を離さなかった。
少し前方に、少し大きい小石が転がり落ちてきた。同時にその付近から、土がゆるむ音がした。私はそのさらに上を見て、異変を探した。
木の根のむき出しになったところだけ、斜面の土が黒く湿っていた。その少し下、道の真上にあたる斜面へ、杭が浅く何本か打ち込まれていた。斜面に細い割れ目ができ、小石がぱらぱらと落ちていた。
「この荷車を前に寄せてください。後ろの荷車は、そのまま待機」
御者が牛を鞭で打ち、荷車が二、三台分前へ出た。後ろの車はそこで止まった。
直後、先程まで車輪のあったところへ泥と石が落ちてきた。見上げると人影がひとつ遠ざかっていた。
兵がどよめいた。
列に空いた間と崩れた跡を一度見て、すぐ視線を戻した。
「待機している兵、総力で土砂を除去。枝と石で足場を補強してください」
兵たちは動かず、互いに顔を見合わせていた。その瞬間に二段目の土砂が落ちてきた。
兵がひとり、足を取られて崖側へ滑った。引き戻そうとしたが間に合わず、谷底へと落ちていった。
兵たちのどよめきは止まり、パラパラと小さな砂が落ちる音だけが聞こえた。
私は、震える喉を抑え、声を張り上げた。
「牛を休ませ、兵は早急に復旧せよ!」
その間に、前列は先に進んでいき、間が広がっていった。
枝を敷いた泥の上を、列はまた動き出した。牛が鼻を鳴らし、今度は少しだけ軽くそこを越えた。
休ませた牛は、少しずつ空いた間を縮めていった。太陽が正中に来る頃には、すっかり元の隊列に戻っていた。
気温が上がり、霧が晴れると、先頭の旗が見えた。湿気を吸った布が重そうに垂れ、風が出るたび、ゆったりと持ち上がった。
旗の下で馬が一頭、止まっていた。そこから伝令が来た。
「兵曹に伝える。将軍が呼んでおられる」
私は夏侯淵の下に馬を急がせた。
近づくにつれ、旗の下の夏侯淵が見えた。馬上でじっとしていても、体だけが先へ出ていた。
濡れた額の下で眉がまっすぐ詰まり、黒い髭が四角い頬から顎を太く囲っていた。大きな肩が鎧を押し広げていた。
夏侯淵は、私を見た後に、後ろの荷車へ一度だけ視線をやった。
「お前が列を動かしたのか」
私は一度頷き、一息待って、答えた。
「詰まれば後ろが死にますゆえ……」
夏侯淵は、しばらく黙った。やがて、前を向いたまま、短く言った。
「……声が細いな。お前、名は?」
「郭淮と申します」
「よし。郭淮、ここに残れ」
私は自分の馬を半歩下げ、荷車と兵の列がほどけないのを見た。軸の鳴る荷台は、もうなかった。
この山道を抜ければようやく、漢中への口を塞ぐ陽平関が見えてくる。だが、道はまだ尽きていなかった。
谷の下から水の音がした。私は一度だけ後ろを見渡した。それから馬首を前へ向けた。




