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第十話 炊事場の戦い

漢中を目指す曹操軍を(さえぎ)るように、巨大な壁がそびえ立っていた。左右には連なる険しい山々、中央には狭い一本の道しかなかった。


そこを塞ぐように、十余里にわたって城が築かれており、張魯の弟・張衛(ちょうえい)と将軍の楊昂(ようこう)楊任(ようじん)が数万の兵を率いて立て籠もっていた。


「……これが陽平関か。自然の要塞だな」


馬上で顎をなでながら、夏侯淵は(つぶや)いた。


陣を敷いて二日目にはすでに、軍の進みは鈍っていた。関上の敵兵の動きはまだ乱れず、砦の下の泥だけが踏み返されて黒くなっていた。


前へ出した兵は戻り、また押し出され、また止まった。砦はまだ遠くに見えるのに、兵糧補給拠点の炊事場の前だけ人が溜まっていた。


私は後営の軍幕(ぐんばく)にいた。入口の垂れ布が揺れるたび、外の鍋の音と怒鳴り声が少し入った。


幕の中は狭く、端に机が置かれ、その上にひとつ灯りがともされていた。


私は机の前に膝をつき、前軍、中軍、後軍、人夫、牛馬に割り振った五枚の木簡を並べていた。


前線からの被害報告、後方からの兵糧、荷駄、馬の状況、どの部隊に何を回したか。伝令が届くたび、木簡に収支を記録した。


それから三日間、薄く雨が降り続いた。轍の底には濁った水が残り、荷車の車輪が通るたび、乾きかけた泥がまた黒く開いた。


雨が上がった六日目の朝、伝令兵から報告が入った。


「報告します。後方で荷駄が(とどこ)っております。配りが遅れ、兵たちの疲労も限界です」


「なぜ? 兵糧は足りているはずです」


「わかりません。しかし、このままだと士気が下がります」


――兵糧が足りないわけじゃない。運ばれてない。


その日の夜、届いた各陣営の帳簿で、兵糧、荷駄、水、矢、配給順を確認した。すべての消費は予定通りだった。


幕の外に目をやると、水桶を抱えた人夫が何度も同じ場所を往復していた。仕分け台の上では口を切った袋が開いたまま積まれ、荷を載せた牛は動き出す前に息を荒くしていた。


私は蝋を薄く敷いた木板を作って持参していた。その蝋板を兵糧帳の横へ並べた。骨べらの先でその板に地図を描き、補給元である長安から陽平関まで、道を三本引いた。


そこに勾配の情報を書き足した。陽平関到着までの総エネルギーを計算し、距離が最短の線を、親指の腹で擦って消した。


――見るべきは、距離ではなく残量。


次に、後方の集積、中継、炊事、荷駄、前軍を地図の上に描き加え、補給元から線で結んだ。机の横に集めさせた木簡を開き、水、人、牛の帳簿を一列に並べて眺めた。


炊事に回る水が足りず、人夫が水桶を持って炊事場の前に取られていた。そのぶん仕分け台の手が減り、荷を載せた牛だけが待たされていた。


――全体の速さは、炊事場で決まってる。


前軍、中軍、後軍、人夫、牛馬を変数とした。連立差分方程式を作り、それを眺めた。


「……蝋は書きにくいな」


ふと見ると机は白い木でできていた。布袋から細く削った木炭を取り出した。蝋板に書いた数式を机に写した。


カリカリカリカリ


幕の隅で、鉄籠(てつかご)の薪が低くはぜていた。その火に照らされながら、独り言は途切れず、私の口角はずっと上がっていた。


その篝火(かがりび)より日の光が明るくなった頃、前軍も人夫も牛馬も潰さずに済む条件が、ようやく一つだけ残った。


「……よし」


私は蝋板を抱え、本営側へ馬を走らせた。


夏侯淵の幕は、砦へ向かう道を見下ろす少し高い場所にあった。幕の前には伝令が立ち、濡れた靴のまま出入りしていた。


中へ通されると、地図の上へ重石のように短刀が置かれ、夏侯淵は鎧の肩を外したまま、開いた書簡(しょかん)に目を落としていた。


「何だ?」


私は蝋板を差し出した。


「現状では前へ押し込みすぎており、それが原因で、前方が食料不足に(おちい)ります」


夏侯淵は眼光鋭く、私を見た。私は蝋板を見せながら続けた。


「兵糧が尽きるのではありません。戦が長引けば、物資の輸送が詰まります」


夏侯淵は板の上の線を見た。長安からの道。中継。炊事。荷駄。前軍。途中で何本も削った跡が残っていた。


「どこで詰まる?」


「炊事場です」


「兵糧ではないのか?」


「兵糧はまだもちます。詰まっているのは水と人手です。鍋が多すぎます」


「どういうことだ。説明せい」


「人夫が炊事に取られて、仕分け台の手が足りません。そのせいで牛が待たされます。牛を待たせると、前へ届く量が明日から落ちます」


「だからこの道を確保しているのだ」


夏侯淵は最短ルートを指さした。私は反論した。


「牛も疲労します。この坂は勾配が強く、牛が減ります。それで、輸送が滞ります」


夏侯淵は何も言わず、板から顔を上げた。


「では、どうする?」


「前軍への追加は絞り、中継に残します。人夫の昼炊きをやめます。鍋を減らし、水と人を牛へ回します。今夜からそう変えれば、戦があと二、三日延びても、前線はまだもちます」


「前が騒ぐぞ」


「ですが、さらに長引けば、騒ぐこともできなくなります」


私は一呼吸置いて続けた。


「山上に陣取る軍勢を後方へ下げましょう」


「それでは先鋒が弱くなるぞ」


「戦わずに兵が死ぬよりはましです」


言葉が消えた。しばらくの間、幕の外の鍋の音だけがした。


夏侯淵は板の上の削り跡をもう一度見た。途中で切れた線はどれも、輸送が詰む案だった。最後に残った一本だけが、中継から前軍まで細くつながっていた。


「兵糧担当を呼べ。今夜の鍋数、人夫の割り当て、中継の残しを、この板に書かれたようにせよ」


兵が走り出た。私は頭を下げた。


「ところで、これは何だ?」


夏侯淵は、蝋板をパンパンと軽く叩いた。


「メモパッ……」


口をついて出た言葉に、自分で一瞬止まった。


「……文字を書いて消せる板……です」


夏侯淵が眉をひそめた。


「ほら、こんな感じで……」


蝋板を夏侯淵から受け取り、空いたスペースに骨べらで絵を描いて見せた。それから、手のひらで擦って蝋を温めてならした。文字が消えた。


夏侯淵は、目を開いて黙った。言葉なく、私から蝋板と骨べらを取ると、自分で文字を書いて消した。何度か繰り返し、私に返しながら言った。


「一時撤退の件は軍議にあげる。だが、陽平関が今日落ちれば、お前は無駄をしたことになる」


「はい。……ですが、落ちなければ、軍が生きることになります」


夏侯淵は脇の兵へ顔を向けた。私は一礼し、元の持ち場へと戻った。帰り道、ぬかるんだ土道を、馬を引いて歩いた。


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