第十一話 秋が来ていた
軍を敷いて七日目の暮れ、曹操の親衛隊長である許楮と夏侯惇へ山上の軍勢を引き上げるよう命が出た。
日が落ちても山上からの撤退は完了せず、夏侯淵がいる前軍では、兵は夜襲に備えて椀を持って並んでいた。
「後ろばかり食ってる」
「前へ出る俺たちの飯を削った」
「郭兵曹の差し金だ」
兵からはそんな声が聞こえていた。それを聞いた夏侯淵が私に耳打ちしてきた。
「良いのか? おまえの所為になってるが」
「構いません」
笑いながらそれだけを言って、私は後営の拠点に戻った。
陽平関を見下ろす丘の上から眺めると、揺れ動く松明の火が、地を這う百足のように、列になってうごめいていた。
帳幕に入り、兵曹から受けた帳簿を並べた。後方の中継拠点には、まだ兵糧の蓄えが残っていた。私は小さく頷き、肩の力を抜いた。
夜半を過ぎたころ、後営の幕の外で人の走る音がした。布が跳ね、伝令が息を切らして入ってきた。
「張衛軍が夜襲に出たようです!」
心臓がパンと跳ねた。鼓動が一気に速くなった。少しだけ間を置き、伝令兵に尋ねた。
「我が軍に当たったのですか?」
「まだわかりません。ただ、松明が並んでいます」
私は急いで帳を閉じて、外へ出た。陽平関から張衛の軍行と思われる松明の列が伸びていた。
「夜中に攻めてくるなんて……」
足が震えた。意味もなく数歩歩いては、また元の位置に戻った。
突如、張衛軍の松明が無規則に散りだした。同時に、遠くで陣太鼓が鳴った。
ドン。
ひとつ打たれ、間を置いてまた鳴る。
ドン。ドン。
数は少なく、統制は取れていなかった。それを聞き、兵がざわついた。
「我が軍の鼓か?」
「張衛の陣が夜襲にあったか?」
「一時撤退の隙を衝かれたぞ」
無意識に拳を固く握りしめていた。爪が手のひらに食い込んだ。
――兵を下げた隙を狙われたなら、私のせいだ。
また鼓の鳴りが激しさを増した。同時に掛け声が山にこだましていた。
私は、乱れ飛ぶように動く松明の火を見て立ち尽くしていた。火はもう、列をなしていなかった。
そのとき、主簿の劉曄が馬で現れた。敵陣の方を見たまま、短く言った。
「崩れているな」
思わず聞き返した。
「え?」
「今が攻め時だ。攻めれば割れる」
松明の火を眺めると、一部、まだ、山のすそ野にも達していなかった。私は、蝋板に書き写した地図と各軍の配置を見た。
「高祚と解剽……」
独り言だった。だけど、劉曄がそれを拾った。
「今、何と言った?」
「高祚と解剽の撤退が遅れております。ここから迂回させれば張衛を強襲で挟み撃ちする形になります」
また鼓が鳴り、その下を何か大きな群れが泥を打つ音が走った。
「曹公へ通す。おぬし、名は?」
「郭淮と申します」
劉曄はそのまま馬首を翻し、前線へと走っていった。止める理由はなかった。いや、止められなかった。
周囲が一斉に騒がしくなった。さっきまで様子をうかがっていた兵たちの顔つきが変わった。
伝令が走り、馬が向きを変え、誰かが「弩を運べ」と怒鳴った。炊事場の隅に重ねられていた矢が、次々と抱え上げられていった。
本営の背後では、弩が一斉に前へ運ばれ、束ねた矢が解かれ、弦が張り直された。
やがて合図が出た。膨大な数の弩から矢が一斉に放たれた。
夜気を裂く音が谷を横に走った。悲鳴が山肌に反射し、私の耳にも届いた。思わず耳を手で覆った。
一度で終わらず、二度、三度と続いた。柵の壊れる音、馬のいななき、兵の叫び、その上をさらに矢が通った。
そこへ前軍が押し出された。
暗闇の中で、隊そのものはよく見えなかった。だが、崩れている側と、崩れていない側の違いはわかった。
松明の火が、ひとつ、またひとつと減っていった。
張衛の陣は、その夜のうちに沈んだ。
しばらくの静寂の後、ぽつりぽつりとまた松明の火が灯された。それらは列をなし、ゆっくりとこちらへ向かっていた。
明け方、私は谷まで馬を走らせ、様子を見にいった。踏み荒らされた泥に矢が立ち、折れた柵の間に、獣の毛が引っかかっていた。
その夜、夏侯淵の本営へ呼ばれた。幕の中にはまだ泥の匂いが残り、地図の脇に私の蝋板が置かれていた。地図の端は濡れ、重しに置かれた短刀の下で紙がわずかに波打っていた。外では鍋の蓋が鳴り、人の足が絶えず行き来していた。
夏侯淵はしばらくその板を見ていた。指で削り跡をなぞり、今度は兵糧帳へ目を移し、それから私を見た。
「なぜ、まだ落ちぬとわかった?」
低い声だった。
「わかっておりませんでした。ただ、前を満たしすぎれば後ろが先に死ぬと思い、そのぶんを残しただけです」
夏侯淵はふたたび蝋板に目をやり、一瞬だけ頬を緩めてから、机へ置いた。
「数千頭の鹿が張衛の陣へ流れ込んだと聞く。これを狙ったのではないのか?」
「そこまでは読めておりませんでした」
私は両手を突き、額を地につけ続けた。
「危うく全滅を招くところでした」
声が震えた。目をつむり、叱咤を待った。しばらく、木々の囁きだけが耳に届いた。
「……ずいぶん薄い背だな。頭を上げよ」
頭の上から声がした。顔だけで夏侯淵を見上げた。
「劉曄に聞いた。お前の進言が無ければ、攻勢に出られなかった」
「しかし……」
「動かねば、運も呼び込めぬものだ」
机の上の蝋板を見たままそう言うと、脇に控えていた兵へ顔を向けた。
「今日から兵糧、荷駄、中継の帳は、郭淮を通せ。この者が帳幕に入っている間は、何人たりとも取り次ぐな。集中させよ」
兵が一斉に拝した。夏侯淵は続けた。
「郭淮。お前を今日より司馬として使う」
私は何も言わず、額だけ下げた。
「……承りました」
声は思ったより静かに出た。
その夜、私は朝まで目を覚まさなかった。
帳幕の外に出ると、それまでの湿気が嘘のように乾いた朝日が昇っていた。
兵たちは、鍋の前で椀を持って笑顔で順を待っていた。牛はもう立ったまま荒く息をついてはおらず、縄を引く人夫の足も止まらなかった。
ふと耳を澄ますと、草むらで鳴き始めた虫たちの声が聞こえた。
いつの間にか、秋が来ていた。
私は深く息を吸い込み、涼しく澄んだ空気を、空っぽになった胸の奥まで満たした。




