第十二話 縁談
鄴に帰らず漢中に残されたまま、冬を越した。山の雪はまだ日陰にだけ固く残っていたが、道のぬかるみは少しずつ土へ戻りはじめていた。
曹操は自ら魏王を称し、陣中にも祝いの空気が広がっていた。その中で、私は静かな日々を過ごしていた。
司馬となった私は、廊閤を出て、板壁の簡素な房を与えられた。机がひとつと、積み重ねられた帳簿と木簡だけ。乾ききらない墨の匂いが、いつも少しだけ残っていた。
その朝、帳簿を眺めていると、入口の戸が鳴った。
顔を上げると、見慣れぬ男が立っていた。軍の兵ではなかった。旅塵をかぶった短衣に、羽織った外套の縁だけが郭家の色で縫われていた。
私は手を止めた。男は中へ入り、膝をついた。
「太原より参りました」
胸の奥がわずかに硬くなった。男は両手で包むようにして、一通の文を差し出した。封泥には、郭家の印があった。端が白く擦れていた。
紙は厚かった。男は顔を上げないまま言った。
「急ぎお目通しを、と」
私はそれを受け取り封を割った。
春の到りを告げる言葉が一行。漢中の務めを労う言葉が二行。そして、その下に本題が続いた。
王家より縁談が来た。
相手は王淩の妹。
家として受ける。
戻って支度を整えよ――
そこまで読んで、指が止まった。外で、馬が鼻を鳴らした。少し離れたところで、誰かが桶を下ろす乾いた音がした。
文を持つ手を静かに下ろした。帯の下で、胸に巻いた布がいつもよりきつく感じられた。
「……郭司馬?」
使いの男が、ためらいがちに声をかけた。私は目を上げた。
「こちらへ着くまで、何日かかりましたか?」
「三十日にございます」
「父上は、この文のほかに何と?」
「急ぎ戻られるように、と」
私は文をたたみ、膝の上へ置いた。その上にそっと手をのせた。
「王家のことは、何か聞いていますか?」
使者は唾を飲み込み、顔を伏せたまま言った。
「噂程度にございますが」
「申してください」
「王家の妹君は、あまり乗り気ではない、と」
まぶたが、わずかに動いた。男は言葉を続けなかった。
机の上の木簡をひとまとめに寄せ、帳簿の端を揃えた。それから使者に聞いた。
「馬は?」
「門の外に一頭。替えを一頭、村外れの厩につないであります」
「分かりました。すぐに向かいます」
私は文を帯の内へ差し入れた。
房の外へ出ると、春先の風が乾いた草の匂いを運んできた。兵たちはいつも通りに、倉の前では荷を数え、炊事場では昼の鍋の支度をし、馬の脇腹を撫でながら誰かが笑っていた。
厩の脇で、部下の一人が私に気づき、立ち上がった。
「郭司馬、どちらへ?」
「しばらくの間、郭家へ戻ります」
部下は目を丸くしたが、すぐに口をつぐんだ。
自分の馬の腹帯を確かめた。革はまだ朝の冷えを残していた。鞍に足をかけたところで、その揺れに合わせて、帯の下の布が胸へ擦れた。
その日のうちに従者と共に漢中を発った。山道には、もう冬の泥はなかった。だが、折れた弓や槍が道脇へ寄せられ、焚いたあとの灰がまだ白く残っていた。
三十日目の夕刻、郭家の門をくぐると、内庭の一角に紅を含んだ布が張られていた。風を受けて、ふわりと膨らみ、すぐにしぼむ。布の端にはまだ新しい折り目が残り、薄い光を返していた。
その前に立っていた寧が、私に気づいて手を止めた。少し大人びた横顔のまま、すぐに頭を下げた。
「お帰りなさいませ。ご無事で何よりでした」
私はすぐには返事をせず、その布を見た。風が吹くたび、紅の薄絹がふわりと膨らみ、すぐにしぼんだ。
「……寧、あれは?」
寧は一瞬だけ視線を伏せた。
「婚礼の支度にございます。お戻りになれば、すぐに整えられるようにと」
みぞおちに鉛が落ちた。額に汗がにじんだ。
「……もう、そこまで進んでいるのね」
寧は言葉なく布の端を持ち直した。私は小さく首を振り、家の中へ上がった。
家の中へ上がると、湯を運ぶ足が早く、廊の端には新しい燭台が置かれていた。奥の房では、衣箱の蓋を開け閉めする音がしていた。
その音を聞きながら、廊を進んだ。書房の前で、足を止めた。
中からは物音がしなかった。ひとつ息を吸い、声をかけた。
「淮にございます」
間を置いて、中から返った。
「入れ」
戸を開けた。夕方の光が差し込み、室の内側を薄く黄に染めていた。
郭縕は、私を見るなり言った。
「早かったな」
「急ぎ戻れとありましたので」
郭縕は座を勧めたが、すぐ本題へ入った。
「王家の話は読んだな」
「はい」
「受ける。先方にもこちらにも、断ってよい縁ではない」
「……王淩殿の家と、そこまで急ぐ理由がございますか?」
間を置かずに返ってきた。
「お前は、もう家の中だけの男ではない。外で使われる身だ。婚姻で家の縁を結んでおかねばならん」
袖の中で、着ていた薄い袍の端をつまんでいた。いつからか、同じ場所だけが湿っていた。
「……ほかの縁では、間に合いませぬか?」
「今、通すべき縁を通さねばならん」
息を吸った。
「親父様、わたしは……」
喉が閉じ、唾を飲んだ。胸を抑えた布がキュッと鳴った。
「……先方の妹君は、どのようなお人にございますか」
郭縕の眉が、ぴくりと動いた。数秒の間があいた。
「知らぬ。会ってみねば分からぬ」
郭縕はそこで一度、文箱の方へ目をやった。
「祝いの言葉は整っていた。だが、ことを急ぐ旨、書かれておった」
「では、先方にも事情が?」
「そうかもしれぬ」
私は背筋を伸ばしたまま、もう一歩だけ踏み込んだ。
「それならば……婚儀を延ばすことは」
郭縕は言葉を被せて言った。
「ありえぬ」
部屋の中が静かになった。庭のどこかで、箱の蓋が閉まる音がした。金具が鳴って、すぐに止んだ。
郭縕は静かに息を吐き、続けた。
「好く好かぬで結ぶ家ばかりなら、世はもっと楽だ」
私は何も返さず、膝の上で拳を握り込んでいた。
「礼を失するな。まずはそれだけだ」
「……承知しました」
私は手をつき、頭を下げ、書房を出た。
廊の空気は書房の中より冷たかった。庭では女中が紅を含んだ布を箱へ納めていた。
柱へ手をついた。
木肌は乾いていた。ざらつきが掌に残った。目を閉じた。
一瞬、呼吸を忘れた。
奥から湯の沸く音がした。私は手を離し、何事もなかったように廊を歩き出した。




