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第八話 官府から軍府へ

初冬の陽が白壁を照らし、庭の木々の葉はもう色付きを過ぎていた。


正堂に向かう回廊の角で、足が止まった。細い蜘蛛の巣が銀に光っていた。風が白壁に沿って抜け、外から舞い込んだ枯れ葉をかすかに鳴らした。


中へ入ると、机上に兵站(へいたん)帳が積まれて、太守がその前に立っていた。白檀(びゃくたん)の香が淡く漂っていた。


太守は私を見て、長い指で机の端を二度叩き、それから口の端だけをわずかに動かした。やがて、低く重く言った。


「平原へ来て以来、おぬしはよく働いた」


私は頭を垂れたまま、何も言わなかった。太守は続けた。


「帳を読み、人を剥ぎ、村を黙らせ、倉の鼠を追い立てた」


細められた眼が、足元から膝、胸元へと、ゆるやかに上がった。その間、口元がかすかに歪んでいた。


「実績は十分過ぎるほどある。ゆえに、推してやろう」


一通の書状を取り上げ、私に見せた。まだ、蝋で()じられてなかった。


「お前を門下賊曹(もんかぞくそう)へ推挙する。軍の側で使わせる」


『賊曹』という響きに、心臓が強く波打った。収まらない動悸を胸の締め付けで感じた。


「……身に余ることにございます」


喉の震えを抑えながら答えると、太守は私を見下ろし、鼻で笑った。


「余るか否かは、おぬしが決めることではない」


私は深く頭を下げた。額の脂汗がこめかみを伝って顎へと流れた。


「……拝命いたします」


――してやられた。


正堂を出ると、冷えた風が回廊を抜けていった。


一週間も経たないうちに、五官将(ごかんしょう)府より府吏が来て、すぐに(ぎょう)に召されることになった。


鄴は都会だった。人と音が多かった。一瞬で目も耳も奪われた。


整然と区画された石畳の道には、荷馬車が絶え間なく(わだち)を刻み、常に人々の喧騒が流れていた。見上げれば、銅雀台(どうしゃくだい)と呼ばれる宮殿の瓦の波が朝日を跳ねて、黄金色に輝いていた。その巨大な影は、街の端々まで続いていた。


五官将府の中へ通されると、外の騒がしさが遠のいた。長い回廊を歩かされる間、自分の足音ばかりが耳についた。案内の吏は一度も私を見ず、曲がるべき所で袖を返すだけだった。


やがて大きな堂の前で立ち止まり、戸の前に立つ私に一礼して、大きな声を出した。


「平原府丞郭淮、召しに応じて、(まか)り出ました」


返事は無く、中からは、木簡が当たる堅い音だけが聞こえた。


「入れ」


しばらくしてから耳に届いたのは、張りのある通る声だった。私は敷居をまたぎ、机の前で伏した。


「おまえが郭淮か。面を上げろ」


顔を上げて前を見た。そこに座っていたのが、曹操の嫡男、五官将(ごかんしょう)曹丕(そうひ)だった。


――若い。


そう思った瞬間、視線を下げた。


鼻筋はすっと通り、唇は薄い。肌は白く、瑞々しく張っていた。巨漢ではないが、引き締まった二の腕には筋肉の筋と血管が浮き上がっていた。


その目は、私の身体を上から下まで舐めた。


私は小刻みに揺れる肩を必死に制した。


「……まぁ、よい」


曹丕は、机の上の木簡を手に取り、言い放った。その声が静かな部屋に鮮やかに響いた。


「郭淮を門下に入れ、賊曹に(しょ)する」


私は深く拝した。


「宮門の内は、乱れ始めると早い。賊を見る前に、人の綻びを見よ」


曹丕の指南が一刻ほど続いた。盗み、逃亡、門内の争い、倉の不足。


賊曹は警察だった。


その後、房に席を与えられた。木簡の束が机に置かれ、北の市の盗み、南門の争い、倉の不足、逃亡徒の照会と、次々に件が回ってきた。


――数値がテキストになっただけ。


房の内で木簡を相手にしている間は、何も問題が無かった。


冬が過ぎ、春が過ぎても、鄴の夜に灯火が消えることはなかった。絹の擦れる音や酒杯の鳴る音が、どこかしこで鳴り続けていた。


「市で盗難があり、二名拿捕」


夜間に小吏からの報告を受け、小房を出ると、戸の前に二人の下男が吏卒(しそつ)に縄で捕らえられていた。


下男は二人ともやせ細っていた。その横に、布を売る小太りの商人が立っていた。


「とりあえず房の中で事情を聞こうか」


そう言って背中を向けた瞬間だった。一人の男が立ち上がり、私に身体を強く当ててきた。私は激しく倒された。


見上げると、二人の下男は腕を縛られたまま走って逃げていた。


「待て!」


立ち上がろうとしたが、足を(くじ)いたらしく、そのまま倒れた。一人は追いついた吏卒に捕らえられたが、もう一人は取り逃がしてしまった。


次の日の朝、曹丕に呼ばれた。膝をつき、頭を下げる私を目で舐めた。


「やはり、この細い身体では務まらん」


私は伏したまま、何も言えなかった。曹丕は、あっさりと言葉を続けた。


「門下賊曹は()める」


私は額を床につけたまま、その言葉を聞いた。曹丕は、机上の別の木簡へ目を移していた。


丞相府兵曹じょうしょうふへいそうが人不足とのことだ」


呼吸が、ふいに浅くなった。


「帳なら読めるのだろう。西方の軍に付ける。張魯討伐の列へ入れ」


かすれた呼気がもれた。声を絞り出した。


「……承りました」


曹丕の房から出ると、回廊を走り抜け、官廨の外に出た。周囲を一度見渡し、裏手の石組みの溝が深く掘られた排水口のそばに身を隠した。湿った土と、腐りかけた落ち葉の匂いが鼻を突いた。


自分の肩を抱くように両腕を交差させた。指が衣の布地に食い込んだ。立っていられず、私はその場に座り込んだ。


頭の中に映像が浮かんだ。


将が怒鳴り、兵が斬り合い、砂埃の中で、喉の渇いた馬が白く歯を剥く。


血飛沫(ちしぶき)を巻きながら兵が踊り、やがて土の上へ横になる。


三十。五十。百。死体が列になっていく。


次の瞬間、目の前で、刀がひらめき、上から下へ光が走った。


私の喉が切れ、腹が裂け、赤いものが土へ吸われていく。


呼吸が詰まり、口から黄色い液が吐き出された。胸と喉が焼けるように痛んだ。


ハッと現実に戻った。目の前に私の吐瀉(としゃ)物があった。


思わず、自分の手を見た。指の先が冷えた。手を握り込むと、喉の奥がわずかに強張(こわば)った。


「……三国志、読んどけばよかった」


自分で自分に話しかけた。涙で視界が歪んだ。


――死んだら、帰れるかな……


しばらく握りしめた拳を眺めていた。目尻から流れた涙が、石畳に落ちた。


やがて息をひとつ吐き、私は手を下ろした。立ち上がり、袖で涙を拭いた。


稲の葉が天を突き刺し、梅雨の合間の日差しが、すべての色を鮮やかに照らしていた。



― 第一部 了 ―


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