第七話 水は嘘をつかない
三日後の朝、太守の堂の前に、私はひとり立っていた。廊下は静かで、風が吹くたびに木の触れ合う音が鳴っていた。牖は閉じられ、埃は立っていなかった。
両手に抱えた木簡の束は、端が揃い、紐で固く締め直されていた。角の欠けと指の跡はそのままだった。
扉の前には小吏が一人、膝を折って控えていた。
「府丞郭淮、改めた帳を持参いたしました」
すこし間があった。やがて内より、低い声が落ちた。
「入れ」
一度だけ、束の紐を指で押さえ、扉を押して間へ入った。
「命により、改めました」
太守は、机上の木簡から目を離さぬまま、わずかに間を置いた。それから、束を取った。紐に触れ、重みを量るように指を止めた。
一本、二本と木簡を抜き、目を走らせた。広間には木簡の擦れるかすかな音だけがあった。木簡を読む音が途切れるまで、私は頭を下げ続けていた。
太守は一束を閉じて、言った。
「……一割五分四厘か」
「はい」
太守はもう一度、帳の端へ目を落とした。
「数字を合わせたのではないな」
「欠けた道筋を拾いました」
太守は鼻でひとつ息を吐いた。しばらく、掌の上の石を転がしていた。そして木簡を置き、ようやく言った。
「では次だ」
小吏が運んできたのは、先の倍を超える古帳であった。南倉と北倉の繰越、四年分。紐は色褪せ、木簡の角は湿りに食われ、ところどころ虫に穿たれていた。紐の結び目だけが新しかった。
「何日要る」
太守は訊いた。私は山の高さ、木簡の反り、墨の褪せを合わせ見た。
「五日もあれば」
太守は顔を上げ、見開いた眼で私を見た。すぐに目線を下に落とした。
「よい。では五日だ」
それだけ言うと、手の甲で去れと命じた。
五日の間、官廨の油火は私の席の上だけ、他より長く灯された。
蔵印の欠け、筆跡の移り、札の差し替え、前年残数の繰り延べ。帳は数字ではなく、人の手癖で崩れていた。
五日目の朝、庭の井戸で顔を洗うと、官服の襟を正し、再び太守の前に進み出た。
「南倉北倉の差は、収蔵数の違いではございません」
「ほう」
「鍵にございます」
私は木簡を広げ、蔵印と荷札の移動を図にして示した。太守は目を細めて覗き込んだ。
「帳の上では穀は減っておりませぬ。されど実際には減っている。その差を埋めるため、倉番どもは空札を挟み、蔵印の写しを重ね、前歳の残を今年の徴に紛れ込ませました」
太守はひととおり眺めたのち、低く鼻で息を吐いた。
「……四年の腐りを五日で掘るか。では次は税布だ」
租税として納められた麻や絹の集計だった。その次は人夫の割当、また次は道普請の資材管理だった。
ある朝、私の机には未処理の木簡が一束増えていた。
「……馬の口付け……か」
夜半には灯の油を抜かれ、筆は隠され、倉への呼び出しは二刻遅れで伝えられた。
――こんなこともあったっけな。
薄暗い廊閤の室の奥で、小さい笑みが漏れた。
灯油がなければ月明かりで読み、筆がなければ木炭を削った。呼び出しが遅れれば、その遅れを見越して先に書状を回した。
「郭淮に押しつけろ。翌日には戻ってくる」
ふた月が過ぎるころには、そんな噂が官廨に流れていた。
例の古参が、私の机に新たな木簡の束を置きながら、低く言った。
「穂泉どのは、腹が立たぬのか」
「何にでございます?」
「皆が、お前を潰そうとしておることに」
私は紐を解きながら、微笑んで答えた。
「幼少より慣れていますから」
古参はしばらく黙っていたが、やがて喉の奥でかすかに笑った。
私の席に積み上がり続けた木簡は、季節が進むと共に減っていき、冬には埃すらなくなっていた。
雪が溶け、桜が舞う頃、太守が片方だけ口角を上げて命を与えてきた。
「今度は算だけでは済まぬぞ」
それは七年も積まれた田境争いだった。
現地に出向くと、真夏の畔は乾き、草はすでに膝を撫でるほどに伸びていた。
着くなり、南北双方の村人が口々に喚いた。
こちらが正しい、いやあちらが先に境を侵した、あの証文を見ろ、いやその証人は死んだ――
私は何も答えなかった。
畔へ降り、草を踏み分け、水路の縁にしゃがみ込んだ。指先で土をつまみ、湿り気を確かめ、流れの落ちる先を目で追った。
布袋から、木板と木炭を出した。畔の幅、水路の勾配、境木から落ち口までの距離――三角を描いた。
片方の村が言う境に合わせると、水は不自然に畔を横切った。布で擦って消し、もう一度引いた。もう片方に寄せると、今度は落ち口が合わなかった。式を作り、水が流れる先を割り出した。
皆、怪訝そうな顔でこちらを見ていた。
「……そこかな」
私は木炭の先で板を二度叩いた。立ち上がり、畔の端に残る古い境木の根元を指した。すでに半ば朽ち、草に埋もれていた。
「そこを掘りましょう」
そう言うと、村人たちは一瞬、口をつぐみ、口々に返してきた。
「何でそこだ?」
「そこに何がある?」
「掘ってどうなる?」
私は口元だけを緩めて答えた。
「水の流れは嘘をつきません」
置いてあった鍬を手に取り、二度、三度、土を起こした。湿った土の匂いが立った。
数人の男が私に続き、鍬で掘り出した。やがて、鈍い音がした。
掘っていた男が顔を上げた。土の下から、黒く朽ちた杭の頭が覗いていた。
私は杭の周りを掘り、土を払った。杭は傾きながらも、残っていた。
誰かが息を呑んだ音が聞こえた。私は水路を指差し、声を張った。
「この杭の位置なら、水はそのまま落ちます。あなたたちの言う境なら、水はここで畔を切ります」
北の村長が、口を開こうとした。
「そ、それは昔の――」
「昔のものだからこそ……でしょう」
私は、その言葉を遮った。村長の目を見て続けた。
「水は低い方にしか流れません。耕作を知っていれば、あなた方がおっしゃるような境を引くことはないでしょう」
杭の位置から縄を引かせた。
「境はここですね」
なおも食い下がる男が一人、顔を真っ赤にして詰め寄ってきた。
「ふざけるな、そんな板切れ遊びで――」
男の手が私の袖を掴んだ。反射的に、私は頬を思い切りはたいた。その音が山で跳ね返った。
一秒後、周囲が息を呑む音が、はっきり聞こえた。私は木板を脇に抱え直し、男から視線を逸らさなかった。
「もう一度言いますね。水は嘘をつきません」
官廨へ戻ると、その話がもう、官廨の隅々にまで回っていた。




