第六話 欠けた帳
平原郡に着いたのは夜だった。府の官廨は白壁に囲まれ、月の光に照らされていた。
門扉の朱塗りは新しく、軒下の飾り瓦には瑞雲の紋様が深く彫り込まれていた。
門をくぐると、同じ白壁に囲まれて、官舎があった。中に一歩足を踏み入れれば、回廊の角には枯れ葉が溜まり、蜘蛛の巣がそこかしこに張られていた。
案内した小吏の背中は丸く、引きずる足音が、静まり返った回廊に低く反響した。
「郭淮様、こちらでございます」
戸が開くと、閉じ込められていた古い炭の匂いと、湿った紙の匂いが、生暖かい夜気と共に肺へ流れ込んできた。
小吏が去った後の部屋で、私は冠を脱いだ。
机の端に置かれた灯火の芯が、小さく爆ぜた。その揺れる光が、がらんとした室内を、ただ寒々と照らしていた。
私は胸の布をゆるめ、寝台に横たわった。天井の木目を数え、呼吸を整えた。
夜が明け、官廨の中に入った。石畳は硬く、行き交う役人たちの足袋が鳴らす音は、官舎の静寂とは対照的に尖っていた。
最奥に、平原太守の堂があった。その厚い漆塗りの扉の前で、案内した小吏が足を止めた。
「郭淮府丞、お入りください」
その声は震えていた。扉が開くと、濃い白檀の香りと共に、陽光を遮った冷厳な空気が肌を叩いた。
広間の奥には、一段高い座があり、太守はそこに座っていた。手元の木簡から目を離さず、静かに筆を走らせていた。
私は石畳を踏み、その正面で膝をついた。
「郭淮、拝命に預かり参上いたしました」
自分の声が、高い天井に反響して戻ってきた。太守は筆を置き、ゆっくりと顔を上げた。
その眉間には深い皺が刻まれていた。その奥にある目が、私の足元から頭までを二度往復した。
「雁門の郭縕が、まことに細い倅を寄こしたものだ」
太守の声は低く、広間の隅々にまで通った。私は視線を逸らさず、太守の目を見据えた。
「名は淮、字は穂泉。雁門の郭家より、天下の泰平を支えるため、平原の土を践みに参りました」
太守は片方の眉だけをわずかに動かし、机の上に置かれた一通の書状へ指を置いた。
「平原は漢中遠征の心臓も同じだ。血の一滴、穀物の一粒の狂いも許されぬ。お前の父は、お前が『算』に長けていると言うが、その細い指で何が量れる」
そう言って、傍らに積まれた木簡の束を床へ放るように置いた。乾いた音が広間に響いた。
「三ヶ月、誰も解けなかった帳だ。数字が合わぬのではない。数字が『消えて』おる」
太守はまた、片方の眉だけをわずかに上げた。
「徴した穀はある。運んだ記録もある。だが、倉へ入った数だけが、道の途中で細っておる。これを三日で正せ。さもなくば、その官服を脱ぎ、雁門へ帰れ」
私はその木簡を、両手で静かに引き寄せた。指先にその重みが伝わった。太守の黒目が浮き、左右と上が白目で囲まれていた。
立ち上がり、深く一礼した。太守は私を見なかった。背を向け、広間を出ていった。
廊下へ出た瞬間、肺に溜まっていた熱い息を一気に吐き出した。
待っていた小吏が声をかけてきた。
「緊張なされましたか?」
「そうだね。顔が怖かった」
私は少し俯きながら笑った。
その後に案内された廊閤には、廊の両側に室が並び、その室ひとつひとつが広大だった。いくつもの長机が並び、十数人の役人が、背を丸めて木簡と格闘していた。
湿った木簡と使い古された筆の匂いで充満し、算木を叩くカチカチという乾いた音が、不規則に降り注いでいた。
背後で、重い木扉が閉まった。それまで響いていた算木の音が、潮が引くように止まった。同時に、数十人の視線が、一斉に私の背中に突き刺さった。
誰も、私に席を示さなかった。
彼らの視線は、私の腰に差した小刀や、郭家から贈られた上質な衣をなぞり、最後に顔で止まった。
私の席は、部屋の最も奥、日の当たらない北側にあった。
「……郭淮様とお呼びすればよろしいかな」
隣の席から、低く掠れた声がした。
算木を並べていた手を止め、一人の老役人が私を横目で見ていた。その指先にはタコがあり、机の縁は、磨り減っていた。
私は机の前に立ったまま、その視線を真っ向から受け止めた。
「淮で結構です」
短く答えると、部屋のあちこちで長い鼻息や微かな吐息が漏れた。
老役人は、山のように積まれた私の机の木簡を、顎でしゃくった。ひと抱えもある木簡の束が、三層に積み上げられていた。
「前任の府丞は、その山に呑まれてお辞めになった。算木も持たず、ただ眺めているだけで片付くほど、平原の政は甘くはございませぬぞ」
部屋の空気が、一段と冷え込んだ。
「よいしょっと」
木簡の山に、太守から受け取った木簡の束を載せた。一番上の木簡を引き抜き、手に取った。指先に薄い塵がついた。
『建安十九年 平原郡徴発穀物 伍百石』
立ったままその一束を解いて目で舐めた。御者への支給、牛の頭数、車輪の補修記録、それから集積地までの距離。
穀の数そのものではなく、穀を動かしたものだけを拾った。牛の口に入る飼料、御者に渡った米、車輪を替えた日、次の集積地までの里数。
一枚、二枚と繰った。算木の音がテンポよく流れた。
頭の中に、一本の数直線が伸びた。
五百石という穀物量。それを運ぶ牛の歩幅。一日に消費される飼料。平原から集積地までの距離。それらを項として並べ替えれば、右辺と左辺の間に、埋めようのない空白が生まれた。
どの木簡にも書かれていない欠けが、そこにあった。
「……一五・四パーセント。一割五分、四厘」
独り言が、冷えた室内に落ちた。周囲の算木の音が、一瞬だけ止まった。
斜め前の席で算木を並べていた老役人が、顔を上げ、私の手元の木簡を怪訝そうに覗き込んだ。
「……何とおっしゃった? 府丞殿」
「穂泉で結構です。一割五分、四厘。それだけの穀物が、この帳簿の計算から消えています」
私は腰を下ろし、白紙にさらさらと筆を走らせた。
「……さて、やるかな」
布袋の中から、表面を毛羽立てた木板と細く割った木炭を取り出した。木炭に小さな布を巻いた。
木簡を次々と見ながら、変数を割り当て、それを木板に書いていった。その下に、方程式を書いて解いていった。グラフ化し、理論値と記録値の差を別の木板にまとめていった。
算木を叩く音に木炭を削るカリカリという音が混ざり、そこに、木簡を捌く乾いた音が加わった。
格子から差し込む朝の光は、いつしか机の端を越え、木簡の山の半ばまで這い上がっていた。
舞った埃が、その光の筋を白く浮かび上がらせていた。ふいに、牖の外から風が入り、その埃を外に運んでいった。




