第五話 卒業したかった
屋敷の手伝いをすることは無くなり、午前中は自分の房で勉強をし、午後からは郭縕の室で問答、夜はまた自分の房へ戻った。
私の机の上には、薄い竹簡を横に紙状に並べた書物が重ねられていた。
孫子、呉子、司馬法、六韜、尉繚子、孫臏兵法。
戦略、軍制、軍礼、統制、政治……どれも短い漢文で書かれており、一読では詳細は分からない。その行間を紐解いている間に理解が進んだ。寧が膳を置いたのも気づかないくらい、夢中になっていた。
初めて雪を見た日の午後、郭縕の机には、四枚の木簡が並んでいた。鄴、江東、益州、漢中。
郭縕はその地名を順に押さえながら言った。
「鄴の命は魏公曹操の名で下る。では、江東と益州と漢中は、いま誰が押さえている」
私は答えた。
「江東は孫権、益州は劉備、漢中は張魯です」
「では、どこから攻めるのが良い?」
「まずは漢中でしょう」
「どう攻める?」
「関は狭く、上を取られています。押し合えば、先に崩れるのは攻める方です。ならば、関を守っている意味を無くします」
郭縕は木簡四枚を重ね、その上へ書を重ねた。
「ほう。正面からは攻めぬと……」
見返されたが、私は声を張って続けた。
「関沿いに二手に割ります。一方は北の山手に、もう一方は漢水を渡り南に布陣します」
「なぜ、その二ヶ所だ?」
「双方、水源と補給線が確保できます」
郭縕は手を打った。
「参った。わずか半年で、そこまで読めるか」
「親父様のおかげです」
私は頭を下げた。郭縕は机の上の木簡を片付けながら続けた。
「郭家の子として孝廉に挙げよう。心して待て」
私はもう一度、頭を深く下げた。郭縕はそれ以上何も言わず、次の木簡が机の上へ滑ってきた。
雪が溶け出した頃。軒で日に当たりながら兵法書を読んでいた。廊を慌ただしく駆ける足音がした。顔を上げる前に、寧の声が落ちてきた。
「穂泉! 州府より使者が参りました。直ちに広間へ」
私は静かに書を閉じ、衣服の乱れを直した。
広間には、漆黒の官服に身を包んだ使者が立っていた。衣に道中の土はなく、腰の紐はゆるまず、足袋の縁にも泥は跳ねていなかった。その手には、木簡が握られていた。
郭縕はその脇に座っていた。私は促され、進み出て膝をついた。
使者が木簡を開いた。
「太原郡陽曲県の郭淮、孝廉として推挙され、平原府丞に除する。即日、赴任の支度を整えるべし」
郭縕が一度だけ頷いた。私はゆっくりと両手でそれを受けた。
「謹んで拝命いたします」
使者はうなずき、用向きだけ残して立った。従者の足音が遠ざかり、広間に水の音だけが残った。庭の端で、雨だれが石へ落ちていた。
しばらくして、郭縕は私を真っすぐに見据えた。私の肩を軽く叩き、部屋を出ていった。
冠礼の日、私は髪を結い直させられていた。
庭へ水が打ってあり、足もとの土はまだ湿っていた。前へ置かれた冠は黒く塗られた、飾りのないものだった。寧が後ろへ回り、髪をすいた。櫛の歯が耳の後ろを通るたび、首筋へ冷たい空気が入った。
部屋に郭縕が入ってきて、座っている私の正面に立った。
「外へ出るなら、字が要る」
郭縕を見上げた。郭縕は私と目を合わせた。口元が少し緩んだ。
「……元の名を名乗れ」
「ほずみ……ですか?」
「……ふむ……当て字が必要か」
郭縕は机の脇から木簡を手に取った。
「……ボォジィ」
そう呟きながら、さらりと二文字書いた。
『伯済』
私は、膝をついて頭を床につけた。
郭縕は手を取って私を立たせ、正面に向き合った。目線の高さが同じだった。
「淮よ。平原では、帳と人を預かる。名に恥じるな」
私は短く答えようとした。
「あなたの子に恥じぬよう……」
言葉が詰まった。郭縕は、私に冠をつけ、帯を締め直した。
「よい。行け」
そう言って背中を向けて、戸口で一度だけ止まり、室を出た。廊に出ると身震いするほどの冷気が流れ、中庭を見ると太陽は厚い雲に隠れ、初春の雪が音を立てずに降り始めていた。
房へ戻ると、寧がもう、旅の準備をしていた。衣が二組、帯が二本、筆が三本、小さい硯、白紙を綴じた束が少し。私は、それを袋に詰めていった。
「穂泉、おめでとう。平原までは、ひと月もかかるのですね」
「ありがとう」
私は硯を衣で包み、袋の底へ置いた。
「……寧がいなければ、私は殺されてた」
寧は小さく笑った。
「おおげさですよ」
だけど、私は笑えなかった。
「寧が側にいなくなるのが不安……」
しばらく音が無くなり、油が燃える、ジュッという小さな音が部屋に響いた。
「ナプキンでしたっけ? 材料の調達には気を付けて」
「そうだね。油紙と灰はともかく、綿花だけは先に見つけないと」
どうしても笑顔が作れなかった。
「すごい発明です。私も助かりました。無いと困ります」
「時々送るようにするね」
ようやく頬の筋肉が緩んだ。
「本当に気を付けて。男らしくはなったけど、女は女だから」
そう言って、寧は私を抱きしめた。
「浴室は特に気を付ける。本当にありがとう」
頬に寧の涙が触れた。私は泣かぬように強く見開いていた。
出立の朝、門の外には馬が二頭いた。官から寄こされた従者が待ち、門番と短く言葉を交わしていた。
空は薄く白く、井戸の縄は濡れて黒かった。甕の蓋には朝の湿りが残っていた。郭縕は門の内側に立っていた。庭の草木はまだ沈んでいた。
「府丞は、郡の政を支える役だ。袋の口ひとつ、木札一枚、それで兵は止まり、民は飢える」
私は頭を下げた。
「はい。行ってまいります」
寧は門の脇にいた。手は振らず、私も振らなかった。門を出てから一度だけ振り返ると、風が通り抜けた。砂煙が目に入った。
「……痛っ」
思わず目を閉じた。ゆっくりゆっくりと目を開けた。白い壁と黒い門板のあいだに、寧の衣の色が残っていた。
垂れ布を上げて、牛車に乗り込んだ。背筋を伸ばして胡坐をかいた。薄暗い囲いの中で、目をつむった。
「……高校、卒業したかった」
牛車が門前の轍を越えたところで、私は顔を上げられなくなった。




