第四十話 二月の予測
司馬懿がいる軍府は、州府とは別に置かれていた。門前に立つ兵は州府の者より鎧が重く、槍の石突は泥をまだ落としきっていなかった。
庭へ入ると、張られた幕と木机がいくつも並び、地図を持った使吏が出入りしていた。
案内されたのは、奥の広間だった。牖は狭く、光は薄い。壁際には巻いた地図と、使い終えた木簡が積まれていた。
正面に司馬懿がいた。
座の前には低い案がひとつ、その右に黒衣の男が立っていた。洛陽からの使者だと、見てすぐ分かった。冠の紐が新しく、袍の裾に遠道の土が浅く残っていた。
私は進み出て膝をついた。
「雍州刺史、郭淮。参上いたしました」
司馬懿はすぐには口を開かなかった。手元の木簡を閉じ、脇へ置いた。それから、私を見た。目だけが動き、顔はほとんど動かなかった。
「遅かったな」
低い声だった。私は頭を下げたまま答えた。
「戦後の景色と季節を感じたかったもので」
司馬懿は鼻で小さく息をした。
「まぁよい」
そのあとで、横の使者に目をやった。使者が一歩進み、胸の前の木簡を持ち上げた。
「詔」
その一声が、板壁に短く返った。
私は手をついたまま、視線だけを落とした。足下の板の木目が見えた。ひびの間に細い砂が詰まっていた。
使者が封を切った。乾いた音がした。
「雍州刺史郭淮、西土を撫循し、羌胡を安んじ、軍食を足らしむ。その功、嘉すべし。揚武将軍に転ぜしむ」
私は息を吸った。胸の布がきしんだ。
使者が木簡を差し出した。私は両手を上げて受けた。角が指先の割れたところに当たり、少しだけ沁みた。
「謹んで拝命いたします」
顔を上げると、司馬懿はまだこちらを見ていた。しばらく間があってから、短く言った。
「諸葛亮は木牛流馬の開発を進めていると聞く。おぬし、どう考える?」
「怖れるに足りませぬ。どれだけ早く運ぼうが、運ぶ荷が無ければ意味がありません」
「……ほう。では、我らはどうする?」
「気にせぬことです。私にも策がございます」
「信じろと?」
「そうは申しません。ただ、私の功は、大将軍の功となるでしょう」
司馬懿の目が一度だけ大きく動き、片方の頬に深い皺が出た。
「何が欲しい?」
「私の直下に兵を五百ほど」
「よかろう。よし、下がれ」
私は一礼し、軍府を出た。
数日のうちに、私には兵が渡された。その報告を受け、州府の外の広場に向かうと、五百人が整列していた。
――もう遠慮するのはやめる。
まず二百に命じた。
「馬を一頭ずつ与える。走る斥候となって情報を集めよ」
斥候が持ってくる木簡や紙で、州府の正堂は瞬く間に埋まっていった。
次の五十人に命じた。
「斥候の情報を紙にまとめよ」
地形は地図に加筆し、将の動きはそれぞれに台帳を作り、逐次、加筆させていった。情報が増えれば、さらに、それらを引くための目録を作らせた。
次の二百人に命じた。
「粘土を焼く窯を作り、掌に収まる口の狭い陶器を作れ」
薄い粘土で陶器の徳利を作らせた。焼きあがった徳利の中に一握りの砂を入れて、口には粘土で蓋をさせた。三つの徳利を縄で三又に結んで、縄を持って投げられるようにした。
次の五十人に命じた。彼らが私にとっての精鋭部隊だった。
「おぬしらは算の技術者になってもらう。明日より私の元に集まれ」
まず、勾股弦の定理(ピタゴラスの定理)と放物運動に関する知識と数学を教えた。
次に、木と竹で、測距儀を作らせた。これがあれば、投石器も二射目から投擲精度が上がる。
最後に、強弩に取り付ける照準器を大量に作らせた。これがあれば、練度が低くても、射撃精度が格段に向上する。
さらに、強弩に何本もの矢を番えられるよう改めた、連弩を作らせた。
糧倉の片隅に置いていた台帳、徳利、測距儀、照準器も、置く場所を失い、一年が過ぎる頃には専用の武庫が作られた。
太和七年の二月。「太和」が「青龍」に改元された。その喜びは長安には伝わっていなかった。私が武庫で徳利の数を数えていると、そこに勅使がやってきた。
正の字を書いた木簡を床に置いて、膝をついた。
「このような所で申し訳ない」
「よい。詔を下す。賢良篤行の士をひとり推挙せよ」
私は木簡を手に持った。費曜と書くつもりだった。だが、頭の中に、私を馬から引きずり落とした若者の名が浮かんだ。木簡には『游奕』と書いた。
「良きに計らってください」
そう言って木簡を手渡し、勅使が帰るのを待った。入れ代わりに司馬懿が入ってきた。
床に置いた木簡を取ろうとして止めて、もう一度、膝をついた。
「郭淮、よい。立て」
司馬懿の視線は、いつもに増して落ち着いていなかった。私は言われるがままに立って司馬懿と向かい合った。
「蜀軍が斜谷口で、何か動いているらしい。おぬし、何か知らぬか?」
「少々お待ちください」
私は、台帳をまとめた棚の前に立ち、『褒斜道』台帳を取って開いた。書かれていた建物の大きさとその完成度から、おおよその完成時期、さらに搬入にかかる時間を見積もった。
「兵糧を貯めておく邸閣を作っているようです。このままなら秋口には運び込みが始まり、冬の間に整備は終わると思われます」
司馬懿は、しばらく、何かを発するかのように舌を動かしていた。
「……なぜわかる?」
何か苦しむかのような言い方だった。
「正確には分かりません。斥候から来る情報と簡単な算を使っただけにございます」
司馬懿は自分の手のひらをじっと見つめてから言った。
「ならば攻めてくるとすると……雪が解けた二月」
「さようでございます」
私は軽く目を閉じ会釈した。
青龍二年の二月。予想通り、諸葛亮が斜谷から褒斜道を通り、長安をめざして出撃した。
その報告を受けたのは、州府の正堂の中だった。斥候が帰った後、頬に手を当てた。緊張した目とは別に、私の口元は笑っていた。
― 第四部 了 ―




