第四十一話 武功水の向こう
強まり始めた陽光の中、私は馬の首を軽く叩きながら、目の前に広がる蜀軍の陣営を見据えていた。
足元には、渭水から分かれた武功水が流れ、対岸の五丈原台地の縁は、蜀軍の陣旗に埋め尽くされていた。その左奥の方に、豁落城を囲む壁と立ち昇る煙が見えた。
逆に右を向くと、渭水とその向こうに秦嶺山脈が望めた。水は黄色に濁り、木々の青々さが春の霧に隠されていた。
背後では、熱風を孕んだ軍旗が、幾千もの太鼓のように鳴っていた。整然と組まれた木柵が、どこまでも続いていた。
私は、先ほど終わったばかりの軍議を思い出していた。狭い帳幕の中で、諸将や幕僚が口々に議論していた。
「蜀軍は台地に籠り、黙々と土を耕しておる」
「持久戦か。こちらの兵糧は?」
「知らん。だが、定軍山の時は出て負けた。決して出てはならん」
上座の司馬懿は、顔を動かさず、目だけをゆっくり回した。その目に触れた者から、声を落としていった。
場の声が細るのを待ってから、低く言った。
「諸葛亮が真に勇者なら、武功水を渡って長安を狙っただろう。だが、五丈原に布陣した。怖れるに足らん」
場が静まった。皆がみな、静かに頷いていた。私は、初めて自ら声を上げた。
「司馬大将軍。意見がございます」
司馬懿は上座を立ち、私の元にやってきた。
獲物を見定めるような湿った視線が、私の項にまとわりついた。後ろから私の顔を覗き込んでから、ようやく聞いた。
「郭刺史、なんだ?」
相変わらず落ち着かない視線で私を見てきた。
「私の斥候によれば、蜀軍が渭水の北へと兵を進める兆しが見られます」
「どういうことだ?」
「十万の兵のほとんどが囮なのでしょう」
司馬懿は頭を掻きむしった。私は、司馬懿の方は見ずに、空になった上座を見ながら続けた。
「北原を落とし、隴右への道を隔絶すれば、隴右は孤立。陳倉より西は容易に陥落させられるでしょう」
司馬懿は髪を掻きむしり過ぎて、指の間に白髪が挟まっていた。その震える指先を見て、司馬懿が諸葛亮に怯えているかのようにも思えた。
下座の方から大きな声が飛んできた。
「そう言い切れるのか!?」
声のした方を向くと、ひとりの幕僚が立ち上がっていた。他の諸将や幕僚からも、一斉に反対意見が飛んできた。
鼻からため息が出た。その間、司馬懿は、軍幕の回りを行ったり来たり、首を回しながら落ち着きなく歩いていた。衣が敷物と擦れる不規則な音だけが、しばらく続いた。
やがて、上座に戻り、私を指さしながら命じてきた。
「……郭淮、北原はおぬしに任そう。ただし、上邽から連れてきた兵だけで行け」
「承りました」
私は一礼し、すぐに厩に向かった。
そこには、游奕が待っていた。陽谿で私を救った若い歩兵だった。私の推挙により、司馬となっていた。
「游司馬、上邽の兵に北原に陣地を築くと伝えよ。私は一足先に向かう」
「はっ」
私は馬に飛び乗り、そのまま駆け出した。渭水を渡り、武功水との分流点に向かった。長安から陳倉に向かう街道が通っていた。
その街道を見渡す台地一帯が、北原と呼ばれていた。
私が連れてきた上邽の兵は、歩兵二千、連弩兵千、雑兵五百。騎馬兵はひとりも居ない。あとは十台の発石車のみ。
そこに、司馬懿に与えられ、私が鍛え上げた五百の先鋭が混ざる。総数四千。
「さて……やるか」
丘の一番高い所に立ち、一度大きく背伸びをしてから、その場に胡坐をかいた。ここからでも、台地の上の蜀軍の兵営が見えた。
袋から測距儀を取り出した。五丈原の台地を降りて、渭水を渡って、北原までは約十キロ。二時間もあれば着いてしまう。
蝋板を出して地形を模写した。北原を降りて渭水に向かい、今度は北原の縁の高さを測り、地図に書き足した。
――計測と情報が戦を制す
私は地図を見ながら、陣営の形を考え、それを描いていった。
北原に戻ると、私の兵が到着しており、軍営を設営していた。
「游司馬おるか!?」
私は声を張った。間もなくして游奕が目の前に立った。
「游司馬、副将に地を掘らせ、塹壕と塁壁をこの地図の通りに作らせよ」
そう言って、蝋板を手渡した。
「軍曹には、発石車を乗せる土塁を作らせよ」
「はっ」
「掘る際に出た石は全て重さを測り、それを炭で記してから土塁の上に並べさせよ」
游奕は、言葉が止まり黙り込んだ。風が砂を運ぶ音だけが周囲を支配し、彼は目をしばたたかせた。少しだけ考え込んで、聞いてきた。
「それはどういうことでしょうか?」
私は笑いながら答えた。
「そうか、游司馬は知らないのだな。私の部隊に任せればよい」
「……分かりました。でも、何か面白いのですね?」
ようやく、自分が笑っていたことに気づいた。それを隠さずに、私は拳を握って、游奕に言った。
「拳を握り前に出せ」
半分だけ首を傾げながら、游奕は拳を前に出した。私はその拳に自分の拳を合わせた。触れ合った皮膚から、游奕の荒い鼓動が伝わってきた。
「いつぞやの恩返しをする。お前に武功をやろう。私に従え」
「はっ」
游奕は素早く礼をすると走り去っていった。日は既に傾き、夕焼けが黄色い平野を真っ赤に染めていた。篝籠に火が灯された。薪が爆ぜる音が激しくなりだした。
暗くなり、篝火が周囲を照らすようになると、私は各設営箇所を回った。鉄鍬が石を穿つ火花が闇に散り、掘り起こされた土の匂いが立ち込めていた。
「今日だけは寝るな! こちらの設営を止めるために、明日朝には攻めてくる。それまで、できるだけ多く石を掘れ!」
「完成しなくてもいい、欲しいのは石だ!」
「どんどん土塁に運べ。計測兵は教えた通り、重さを測れ」
「我ら全員、勝って帰るぞ!」
とにかく声をかけ続けた。西の空が少しだけ白む頃には、私の声は潰れていた。
五丈原の縁から、無数の光が波となって溢れ出した。霧を割って現れた蜀軍の重厚な隊列が、視界を黒く塗り潰していた。
幾万の槍先が弾く光の粒が、音もなく兵数の差を突きつけてきた。




