第三十九話 ざらついた手
戦が終わった上邽の城壁から周囲を眺めた。見えるはずの麦の穂の波は無く、荒々しく踏み荒らされた跡だけが残っていた。遠目に、死体や折れた槍や弓を集めている者たちが見えた。
盆地らしい籠った湿気とセミの声が、今が夏だと言うのを理解させた。
「郭刺史、大将軍がお呼びです」
「……分かった」
官廨の堂に入ると、上座に司馬懿が座っていた。目尻には深い皺が刻まれ、その目線は常に動き続けていた。唇は一文字に結ばれ、顎の筋肉が常に微かに波打っていた。
私はその前に膝をついた。
「おぬしが郭淮か。張郃が、おぬしの策が効いたと言っておった。何をした?」
『張郃』という言葉に、拳と肩に力が入った。手のざらつきが思い出された。フッと口から強く息を吐いてから、私は答えた。
「効率の良い補給らしき行動を見せつけたまでにございます」
司馬懿の片方の眉が、ピクリと動いた。
「らしき、とは?」
「北からの輸送の半分は空でございます。算によれば、兵糧はあと七日で尽きました」
司馬懿が私に覆いかぶさるように立ち上がり、声を荒げた。
「おぬしは、わしをも騙したのか!?」
頭の上から声が聞こえた。私はゆっくりと司馬懿を見上げた。
「そうせねば、我が軍の士気がさがりましょう」
「……」
「これは、敵は司馬大将軍を恐れ、味方にそれを信じさせるためにございます」
司馬懿は、口元が徐々に緩むのを、隠しきれていなかった。
「馬に火を持たせ走らせただけですが、遠くから見れば新しい輸送技術に見えたことでしょう」
一拍、置いてから続けた。
「……司馬大将軍なら何か開発しただろうと思うはず。自らも木牛流馬を作ったのだから」
司馬懿はついに笑い、音を出しながら座った。
「わしの威光を利用した、と」
「いかにも、その通りです」
そう言って、私は頭を垂れた。司馬懿は、さらに質問を投げてきた。
「それで、今後をどう読む?」
「斥候によれば、蜀国内の糧食蓄積が尽きかけております。今後、三年程度は攻めてこないでしょう」
司馬懿は顎に手を置き、顔を動かしながら、目玉をぐるぐると回した。その動きを静止させてから、私を指さして言った。
「……まぁ、良い。おぬし、長安に戻れ。張郃の代わりだ」
その言葉に返事はせず、頭をもう一段下げて、部屋を出た。
木が湿気を吸った匂いの回廊を歩き、自分の部屋へと戻った。ほとんどを褒美として与えたため、私の荷物は木箱一つとなっていた。
木箱の前に座った。山を駆け巡った漢服の裾は、糸がほつれボロボロになっていた。裾を鼻につけた。土の匂いと汗の匂いが混ざり鼻を突いた。
長安に戻るその日の朝、城門の側まで費曜はついてきた。
「郭刺史、長らく世話になった」
費曜は私に手のひらを見せた。私はそれを叩き、両手で抱えた。
「こちらこそ世話になった」
両手で費曜の手を握り、一礼した。私たちはそれ以上言葉を返さず、しばらくそのままだった。私は握った手を離して、馬に乗った。
「費将軍とは、また一緒に戦うだろうな。それまで、どうぞご無事で」
「郭刺史も。次もまた生き残ろう」
馬腹を蹴った。馬がゆっくりと歩きだした。門を出るとずっと先まで道が見えた。
正面から東の光が目に入り、手を額に置きながら前に進んだ。振り返ると、費曜が門の外にまで出て、私を見送っていた。
約二年半ぶりに長安の官舎に戻った。夏の夕方の中庭に、私が上邽から送った焼き物の陶鈴が涼しげに鳴っていた。王氏と統が並んで廊に腰かけていた。
「父上!」
私の顔を見つけた統が走ってきた。高かった声が少し低く掠れていた。
「ただいま戻った」
統の頭に手を載せた。王氏がそれを目を細めて見て、微笑みながら言った。
「お帰りなさいませ」
統から手を離し、王氏の近くに寄った。
「なんとか生きて帰ってこれた」
陶鈴がチリンと小さく鳴った。王氏は頷いて、音の方に顔を向けた。
「送っていただいたこの陶鈴は、風鐸とはまた違う、気持ちのよい音がしますね」
まだ日が落ち切らない夏の中庭に、チリーンと高く響く音が、またひとつ流れた。
その夜、浴室で王氏が背中を流してくれた。私の体を見て触りながら、王氏は言った。
「こんなに傷だらけになるものなのですね」
「今回は戦場に出たからかも」
私は自分の体を眺めた。斬られたわけでもないのに、私の身体のそこかしこに傷跡ができていた。
自分のお腹に手を置くと、脂肪はほとんどなく、六つの筋肉が隆々としていた。身体のどの部位を見てみても筋張っていた。
「体つきはもうほとんど男だね」
王氏は黙って、私の身体を拭きあげてくれた。
次の日、州府の正堂に入った。牖は半ばまで開かれ、庭の槐の影が、正堂の床へ細く落ちている。机の上には、隴右から上がった木簡が三束、羌胡の戸数を書いた札が一列、伏せた筆が一本。香は焚いていなかった。
「……別駕が私の代わりに州府を守ってくれていたのか」
私は香を焚き、茶を煎れた。その二つの匂いを鼻から思い切り吸った。残っていた渇ききらぬ墨の匂いを同時に感じた。墨を新しく摺り、木簡に筆を走らせた。
夏侯淵、郝昭、曹真、張郃。
彼らの名前を並べて眺めた。顔が頭の中に浮かんだ。私だけが、まだこの世界に残っていた。
彼らが守ろうとした魏という形を、私が守ることに意味がある――そんな気がした。
次の戦の気配がないまま、残暑も残り少なくなった朝、正堂で筆を取ろうとした時、外で足音が止まった。下吏が戸口で膝をつき、頭を下げた。
「郭刺史。大将軍府より使いにございます」
私は手を止めた。胸の布が、朝から少し高いところで当たっていた。深く息を吸うと、肋の下が鈍く痛んだ。
「……今、行く」
官廨の門を出て東へ折れ、城内の大路を進んだ。祁山から戻った兵がまだ長安のそこかしこに残っていて、馬の汗と干し草の匂いが、朝の空気に混じっていた。




