第三十八話 運ばれる松明
朝那の官廨で奥の室に通されると、丁寧に茶まで用意されていた。私は席に座るや否や、県長に頭を下げた。
「すまない。兵糧を集めたい。それを上邽まで運ぶ兵と馬を貸して欲しい」
県長は、眉根を寄せて、静かに答えた。
「牛ではなく馬ですか……」
私は身体を起こして、一拍置いてから、説明した。
「ここから上邽までは下りだ。荷重が軽いなら馬の方が早い。急ぎ兵糧を運びたいのだ」
「ですが、馬は疲労します。何度も輸送させると死んでしまいます」
県長は眉を大きくしかめた。そして続けた。
「馬はこの地に生きるには必需。刺史様の命とは言え、馬を殺すわけにはいきません」
私は言葉を強くした。
「殺さない。二つ約束しよう」
「なんでございましょう?」
「ひとつは、輸送は一度だけで良い。ここに運び込んだ兵糧分以上は運ばせない」
県長はまずひとつ頷いた。
「もうひとつ。帰りは、上邽で休ませている元気な馬を返す。絹を載せてな」
私は眉を一度だけ上下させた。県長は、地図の下り道をなぞり、拳を掌でポンと鳴らした。
「郭刺史、承りました」
そう一つ頭を下げると、県長は使いを呼び、命じた。
「刺史様の部屋と暖かい食事の準備を」
「ありがたい。頂戴しよう」
その日、私は四日ぶりに暖かい粥を食べ、体を拭き、床についた。
夜が明けるとすぐに、使吏に付近の地図を用意させた。持参した台帳を開いた。そこには、十年前に捕まえた羌族や胡族に書かせた居所が一覧としてまとめられていた。
地図にその居所を描き足した。全ての居所を記載して、私は朝那の候舍を出た。
記録した羌族・胡族の居所に向かい、ひたすら額を床に付けた。
「すまんが、食糧を分けてほしい。麦でも粟でも何でもいい。塩でもいい」
「何をおっしゃる。いつも助けてもらっている。少ししかないが持っていってくれ」
「恩に着る。必ず恩は返す」
断られる家もあった。
国境付近にまで北上した。もう記録にはない場所だった。
それでも目に入った集落を訪れ、声を掛けた。言葉が通じなかった。
――ここは鮮卑の集落か
諦めて帰ろうとした時、片言の漢語で声を掛けられた。
「女の尻は、馬で分かる」
私はつい自分の尻を見た。すぐに声の方を向くと、そこには、女性が鋭く私を見ていた。ただ笑顔だった。
彼女は、私が乗る鐙を指さした。そして、着ていた上着を脱ぎ、私に差し出してきた。
私は首を横に振り、麦が入っているであろう麻袋の山を指さした。
彼女が笑って大きく頷いた。私は馬から鐙を外し、彼女に手渡した。彼女は私の馬に麻袋を一つ載せた。
それからも私は、半月をかけて、目に入った全ての集落で頭を下げた。
朝那に戻った時、山の向こうから荷車の列ができていた。荷物は馬に載せ替えられ、上邽へと運ばれていく準備がされていた。
「十日もあれば、上邽に届くでしょう」
そう言って微笑む県長に、私は言った。
「もうひとつお願いがある。運ぶ物がなくとも、人と馬に松明を持たせて上邽まで来てほしい。その者たちにも絹を渡そう」
何度目だろう。私は頭を下げた。県長はしばらく黙っていたが、やがて低くたずねた。
「郭刺史、あなたはお若い。なぜ、そこまでなさるのですか?」
頭が止まった。返す言葉が何も出てこなかった。少し経って、私は笑った。
「わからない。だが私は、私がやりたいからやっている。それ以上の理由は必要か?」
県長は笑った。
「いえ……雍州にどうか太平を」
そして、目を閉じて私に一礼した。
私は上邽へ馳せ帰った。五日後、城に着いてすぐに、戦況を尋ねた。
司馬懿は攻めず、諸葛亮はゆっくりと後退して、鹵城に籠った。北の山に高翔、南の山間に呉斑、王平、正面に魏延が布陣していた。
さらに、渭水支流の耤河をせき止めて濠としていた。
予想通り、司馬懿もまた山に陣を敷き、持久戦の態勢であった。
その間に鹵城周辺の麦も刈り取られていた。
「なぜ、これほどまでに動かないのだ?」
私は費曜に聞いた。費曜は淡々と、本当に淡々と伝えてきた。
「いや、一度、仕掛けたのだ。大将軍自ら。そして大破された。もはや完全に膠着だ……」
「ならば勝てる。ここはそろそろ長雨が降るから」
私の頬が緩んだ。費曜は首を傾げた。
私の読み通り、数日後から雨が続いた。官廨の中は天井に雨が打ちつける音がうるさく響いていた。
その間に、続々と兵糧が上邽に届いていた。兵糧庫で私は、その量を数えていた。そこに費曜がやってきた。
「これは?」
「貢物だ。私の絹と引き換えだけどな」
私は目尻に皺をいっぱいに作って笑った。
「おぬし……まさかこれを狙ったのか? 蜀軍から見えるように……」
「一回だけ。これで引かないなら負けだが、諸葛亮ならむしろ引く」
「なぜそう言い切れる?」
私は、腰に手を当て、顎を上に向けた。鼻の穴が少しだけ膨らんだ。
「木牛だかなんだか知らんが、雨が降れば、漢中からの補給はできない。あの人数、この辺りの麦だけでは賄えん」
「……」
「費将軍、我らふたりの勝ちだ」
私は笑顔で片手を上げた。費曜がその手をパンと叩いた。
その翌日、斥候から欲しかった報告を得た。
「蜀軍、退却を開始しました!」
私は拳を握り込んだ。泣いた。笑顔で泣いた。ようやく身体が恐怖に反応した。私の身体は震え、動悸は激しくなり、脂汗が流れた。
それでも、私は泣いて笑った。
「……生きてる」
誰にともなく、呟いた。
だが、その余韻は長く続かなかった。僅か二日後、茶を飲んでいると斥候が血相を変えてやってきた。
「どうしたのだ? もう後処理だろう?」
私は茶を飲みながら聞いた。斥候は、二度ほど何かを言いかけて止めた。
「なんだ? もったいぶらずに言え」
「……張将軍が討たれました」
持っていた碗を落とした。碗は床に落ちて割れ、茶があたりに飛び散った。
「なぜだ? なぜそこで戦が起こるのだ? 儁乂どのはそこで追撃するような阿呆ではない!」
私は斥候の胸倉をつかんで睨みつけた。
「大将軍が、張将軍に追撃を命じたようです」
状況が一瞬で理解できた。
「……蜀の伏兵か?」
「……はい。木門谷辺りで矢を受けたと」
私は斥候の胸ぐらからゆっくり手を離し、彼の服を正した。
「わかった。……すまなかった」
私は斥候に背を向けた。肩が震え出した。
「大将軍が、今回の功で郭刺史に将軍位を与えるとも聞いております」
私は振り向かずに答えた。
「……要らんな。去ね。もうわかった」
「はっ」
割れた碗の破片に、涙が落ちた。そのまま、斥候が出ていく音だけを聞いていた。
音が無くなり、私の中で何かが切れた。
腕をまくった。真っ黒に日焼けした筋張った筋肉。手の甲を見れば関節が太く、手の甲の皮膚は厚かった。
私はその右手で左手を擦った。ざらざらとした手触りが、張郃の大きな手と重なり、いつまでも左手の甲に残った。




