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第三十七話 砂の朝那

太和五年三月。桜満開の上邽城に、蜀兵の大軍が迫っていた。迎え撃つ魏軍は、わずか四千。


戴陵を城内に残し、費曜と私で二千ずつ兵を分け合い、城の外に陣を張った。費曜と城壁に上り、兵営の様子を眺めていた。


「伯道どのは千余りで陳倉を守ったのだな」


私は、あまりにも小さな兵営を見て、呟いた。


「……郭刺史、何か策は無いのか?」


「すまぬが、無い」


「そうだな」


生温かい湿った風が頬を撫でた。費曜が何かに気づいたかのように私に聞いてきた。


「蜀軍の兵数は五万だとか八万だとか言われているが、それだけの兵糧が運べたのか?」


「私の斥候が言うには、木牛流馬(もくぎゅうりゅうば)なる荷車で、運んだのだそうだ」


「なんだそれは?」


「わからない。だが、だからこそ、この短期間にそれだけの兵を動かせたのだろう」


費曜は黙り込んだ。しばらくそのまま兵営を眺めた後、大きく息を吸って笑顔で声を出した。


「兵糧長! 今日は米をたんまり出してやれ!」


「了解しました、費将軍!」


下から大きな声が返ってきた。ふたりで顔を合わせて笑った。


数日後、城壁から蜀の旗印が見えてきた。魏軍に比べて圧倒的に広い兵営が築かれていった。


兵の少ない魏軍は牽制することもできず、私は城壁の上から、ただその様子を黙って眺めていた。


――な……なに?


蜀軍は、上邽城に兵を向けずに、東へと兵を動かしていた。まさに司馬懿が向かってくる方だった。


「費将軍、これはどういうことだ?」


「分からない。さすがに司馬懿と正面衝突を望むとも思えない」


斥候に状況を調べに行かせた。


その夜、斥候が帰ってきて、軍帳にいた私と費曜に報告してきた。


「蜀兵は、麦を刈っております」


私は机を拳で叩いた。費曜がその音にたじろいで、後ろに倒れかけた。


「……たかだか四千でも籠城されれば落とすのは困難。だが、四千では五万の兵を倒せん。我らは麦を刈られるのを黙って見てるしかない」


自分の歯ぎしりの音が聞こえた。


「司馬懿は、挟み撃ちを誘われた。兵を分けていなければ、諸葛亮は麦を刈る余裕などなかった」


頭に血が上り、机を蹴飛ばした。机の上の木駒が部屋の壁に飛び散った。


「おちつけ、郭刺史……」


費曜に(なだ)められたが、私の口は勝手に言葉を発した。


「魏軍は完全にヤツの掌の上か!? ヤツは戦わん。魏軍は攻めてこないと読まれている」


私は使者を呼んだ。


「張郃殿に上邽西方から蜀軍に奇襲をかけるよう進言せよ。我らが出ても構わん! 急げ! 西の鹵城(ろじょう)に陣取られるぞ」


「はっ!」


私は息が切れていた。費曜は、私の姿を半歩下がって、ただ立ち尽くして見ていた。


予想通り、司馬懿は牛金(ぎゅうきん)を使って牽制しただけで、自ら攻め出なかった。


蜀軍は牽制のたびに少し退き、そのあたりの麦を刈った。刈り尽くせば、また少し後退した。


「張将軍からの伝達です。大将軍様に進言したが断られた、とのこと。なお、蜀軍は鹵城に至り、設営が完了しております」


使者からの伝言を聞き、肩が落ち、膝から崩れた。頭だけが後から落ちた。


「……こちらはもう兵糧が尽きる。持久戦はあり得ない。なぜ司馬懿は、勝てない選択をするんだ?!」


項垂れる私の肩を、費曜がポンと叩いた。


「郭淮殿、『将軍』くらいはつけようか。反逆の気があると密告されるぞ」


眉間に深い皺を作りながら、費曜は私に笑顔を見せた。私も費曜に同じ笑顔を返した。


「そうだな。……ありがとう」


私は立ち上がった。立ち上がったその瞬間、目の前に、机を蹴った時に散った地図があった。走馬灯のように情景が流れた。山道、軍行、設営、そして、麦刈り。


「……兵糧が無い」


独り言だった。費曜がそれを拾った。


「そうだな。もたないだろうな」


私は費曜の目を見て言った。


「違う。蜀軍も兵糧が無いのだ。木牛流馬など兵を動かすただの口上だ。本当にそれで兵糧が(まかな)えるなら、ここで麦を刈る理由がない」


「そうか! 蜀軍は、補給ができない状況か」


私は自然と拳を握ってから掌を開いて見せた。


「なんだ?」


「私が産まれ育った土地ではこうするのだ。費将軍も真似てくれ」


私は腕を振り、費曜の掌に、自分の掌を当てた。パーンッ、と心地よい音がした。


「私に策がある。すまんが、私が居るふりをし続けてくれ。蜀軍に絶対に知られたくない」


費曜は笑顔で頷いた。


「任せろ。おぬしは信用できる刺史だ」


私は無言の笑顔で会釈だけして自分の部屋に戻った。


片道だけの旅の準備をした。袋に私がまとめた一冊の台帳を入れた。鎧ではなく軽装を身に纏った。


その夜は朧月(おぼろづき)だった。薄暗い月明かりを頼りに私は単騎で北西の安定郡へと走った。


馬を(なだ)めながら夜通し走った。山を駆け上がった。春も終わるというのに肌寒くなり、空気が薄くなっていくのが分かった。


明け方には緑が減り、砂と石が増えてきた。視界は広く、右手には六盤山(ろくばんさん)が見えた。


ふと背中に人の温もりを感じた。手綱を引いて馬を停めた。


後ろを向いても人はいなかった。それは、あるはずのない男の感覚だった。


「……願ったところで、手には入らない……か」


自分の言葉を自分で聞いて、涙が頬を伝って顎から落ちた。


――もう日本語が出てこない


涙が落ちないように上を向いた。そんな歌があったような気がした。私はそれを口ずさみながら、馬を歩かせた。堅い砂の道を叩く蹄の音が遠くに消えていった。


山を越えて、安定郡の朝那に入ったのは四日後の昼だった。朝那の官廨は小さかった。門から入ろうとすると、中から県長が出てきて迎えてくれた。


「郭刺史のおかげであれから羌族との争いもなく、落ち着いております」


深々と頭を下げられた。


「使者より伝達は受けております。どうぞ奥に入って休んでください」


県長に従い、奥の房へとついていった。窓から風が入ってきて、砂が乾いた匂いが鼻に入り、目が少し痒くなった。


砂粒が壁を打つ小さな音が、まるでさざ波のようだった。


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