第三十六話 雪の命令
足元では、乾いた落ち葉が幾重にも重なり、馬の蹄が乗るたびに薄く割れる音を立てていた。見上げれば、吸い込まれそうなほどに高い、澄み渡った青空だった。
私と費曜は馬に乗って、上邽に向かって山道を戻っていた。
「費将軍、すまなかった。私が蜀兵を連れて行ってしまった」
「いや、郭刺史が来なければ全滅していた」
ふと馬を止めると、燃え盛るような楓の赤と、銀杏の柔らかな黄金色。風が木々を揺らし、一枚の葉が、ひらひらと蝶のように舞いながら肩に降りてきた。
山道は曲がりくねり、その先にはまた新しい赤や黄色が待っていた。馬が進むたび、色づいた葉が蹄の脇へ散った。
上邽城に着いた時、細かく小さな雪がちらついた。官廨に入ると、魏軍の敗戦の報告が待っていた。
曹真は、雨の道を漢中まで進むことはできず、私たちが落とした下弁や陰平は魏延らに奪還されていた。
魏軍は人夫と兵糧をいたずらに失っただけだった。徴兵できる人夫ももうなく、上邽城内は静まり返っていた。
十一月に入り、雪が降り積もるようになると、城内も雪の降る音が聞こえるかのように静かになっていた。
「曹大司馬が病に伏せており、今後は、司馬大将軍の指揮下となります」
そう使者から伝えられた。続いて司馬懿からの使者が間髪入れずにやってきた。
「祁山には魏平と賈嗣を配する。郭刺史、費将軍は、そのまま上邽を守備せよ、とのことです」
その内容が書かれた木簡を見ながら、ただ頷いた。肩に乗っていた重みが無くなった感じがした。
「……大将軍は、刺史の役割を奪うのか」
費曜は、眉間に皺を寄せて呟いて、私の方を向いた。
「いや、この方が気が楽だ」
私はそう言って笑った。
「そうだな」
費曜もつられて笑った。使者の口元は締まりを失って半開きになり、何度か瞬きを繰り返していた。
それから私と費曜は、軍議にこもった。地図の上の木駒を動かしながら、次に備えた戦略を練っていた。
「先の戦いで蜀は何も失っていない。今、攻められたら負けるだろうな」
費曜が長安に置いた司馬懿の木駒をコンコンと鳴らしながら言ってきた。
「……この隙を逃すはずはない、と」
私は、蜀軍の木駒で祁山城を取り囲んだ。
「我らの敗北で涼州雍州の兵は薄い。間違いなく、狙いはここ」
「当然、魏軍は迎え撃つ」
費曜が魏軍の木駒を、天水に並べた。
「諸葛亮の策略には、法則がある。前回は西の羌族を使った。つまり、次は北の鮮卑族を使って上から攻めさせるだろう」
私は、何も書いていない木駒を北の方から天水に下ろした。費曜がすぐに、その駒を北から長安へ向けて動かして言った。
「……奴らが攻めてくるなら、ここを通るな」
その通り道には、雍城や郿城があった。費曜は続けた。
「だから、守護兵を置いておく必要がある」
私は返事をせずに、腕を組んで下を向いた。上を向いてまた下を向いた。それからようやく言葉を発した。
「しかし、敗北を続ける私の提言が大将軍に届くだろうか? 曹真どのであれば、耳を傾けてくれただろうが……」
「張将軍に進言して頂くのはどうだろうか? 郭刺史の言葉なら張将軍も信頼するだろう」
こうして、張郃に費曜との議論をまとめた書簡を送った。
雪が溶けだした太和五年二月。諸葛亮は祁山城を包囲した。その使者の伝え方は、どこか間が抜けていた。
「大将軍より命です。戴陵に四千を預ける。上邽にて守備に徹せ」
それを聞いた私は使者を怒鳴りつけた。
「我らには、迎撃するなと言うのか!?」
「たった四千……祁山からこちらを狙われたらひとたまりもない」
費曜のこの言葉に、使者がゆっくりと返答した。
「大将軍が、自ら祁山に向かうとのことです。ご安心ください」
そう言って軽く会釈をして帰っていった。しばらく費曜と黙って顔を合わせていた。
「我々にはもう打つ手はない」
そう捨て台詞を吐いて、費曜も部屋を出ていった。
私は、一人地図を見ていた。ぽつりぽつりと地図の上に涙が落ちた。私は右手の爪を噛んだ。爪の端が裂け、血が滲んでも、考えるのをやめられなかった。
――私にできることはなに?
項垂れた。武力では到底勝てない。手の読み合いでも勝てなかった。
――この世界に無いこと……
目を見開き、顔を上げた。遠くに座る使吏を呼んだ。
「すぐに騎兵二百を営中に集めろ」
私は、集まった騎兵に、令を出した。
「おぬしら全員、走る斥候となれ。待っていても武功は無い。散って、とにかく情報を集めよ。戦の状況だけではなく、城と城の間にかかる日数などでも良い。有益な情報を持ち帰った者には褒美を取らす」
一週間後から、私の机には木簡が重ねられるようになってきた。
集められた情報から、地図には、距離と勾配だけではない実際の軍行時間、道幅、水源などが加えられた。各軍の配置も詳細に分かってきた。
司馬懿が張郃と杜襲を連れ、街亭に向かい、その途中、上邽の北方の隃麋県に入っていた。張郃への提言は通っておらず、全軍での軍行だった。予想通り、鮮卑の軍が長安に向かっていたが、牽招が迎撃に出ていた。
費曜が部屋に入ってきて細かく文字の書かれた地図を覗き込んだ。
「大将軍は救援すると言いながら、なぜ街亭に?」
「非常に言いにくいことだが……」
私は言葉に詰まったが、費曜の顔色を見て、そのまま続けた。
「蜀軍がここを落とすのに手間取っている間に、街亭から略陽と清水、つまり、西と東に分かれて挟み撃ちにする策だろう」
「……では、我々には、それまでただ耐えろと」
私は一瞬だけ目を瞑った。
「いや。多分だが、迎撃せよと命じられる。混戦状況の中で挟み撃ちにして、混乱を誘いたいのだろうから」
それを聞いて、費曜は手で目を覆い、天井を仰いだ。
「なるほど。我らには死しても時間を稼げと……」
そのとき、私の斥候と司馬懿の使者が同時に駆け込んできた。斥候が先に報告した。
「蜀軍五万が、こちらに向かっております。将は諸葛亮です」
私は使者の方に聞いた。
「それで、大将軍様はどうしろと?」
「城を出て迎撃せよ、とのことです」
費曜と目が合った。
費曜は膝に手を置き、音を立てずに立ち上がった。その日の朝、曹真の訃報も受けていた。
「さて、曹真大司馬の後に続くかねぇ」
そう言って、腰を上げ、背伸びをしてから、部屋を出ていった。その背中を斥候が目で追っていた。部屋の中に、雪の匂いを含んだ冷気が入ってきた。




