↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/45

第三十五話 裏の裏

日が完全に昇っても、室に差し込む光は白くならず、雨音だけが耳に入っていた。費曜が欠伸をしながら入ってきた。


「郭刺史、ずっと起きておったのか?」


「まさか。先刻起きたところだ」


私は地図に目を向けた。手で陽平関から下弁までの道をなぞった。


「駒が足りんのだ。私が囮で出撃した後に、急ぎ北に戻るしかない」


費曜が小さな竹簡に軍名を書いた新しい駒を見せてきた。


「昨日、斥候から情報が戻ってきて、私も考えてみた」


私は不格好な竹駒を見て、それから費曜の顔を見た。


「曹真軍は大雨で足止めらしいが、張郃軍、司馬懿軍共に、順調に進軍している」


私は地図ではなく、駒を動かす費曜の横顔を見た。目の下に隈ができ、頬の肉が落ちていた。費曜は蜀の駒を動かした。


「だから蜀軍も大半は動けない。西を攻めるなら当然、陽平関から軍を出すしかない。いや、もう出しているかもしれん」


「……それはそう……だな」


「そこで、わしが北回りで隴西から南下。郭刺史は南西に、陰平を目指す」


――下弁が空く。やはり、駒が一枚足りない。


費曜が一瞬、顔だけこちらを見た。私は地図上で動かされた司馬懿の竹駒を見ていた。


「大将軍にさらに遡上(そじょう)してもらおう。待機するくらいなら、陽平へ向かってくれるだろう」


思わず指を鳴らし、費曜の方を向いた。


「……費将軍! それだ!」


費曜と目が合った。費曜の口元がゆっくりと上がった。


それから司馬懿の軍営へ急ぎ使者を送り、私達はそれぞれ軍を進めた。費曜に魏兵三千を与え、私は魏兵二千を前に、降った蜀兵五千を後陣に組み入れた。


費曜は防御線確保のため北西の襄武(じょうぶ)城に向かい、私は補給線を断つため、西方面、沓中(とうちゅう)城の制圧に向かった。


私にとっては初めて単軍での攻城戦になった。

ところが、沓中城に兵は見当たらず、門番兵もあっさりと降伏を認めた。


「……なにか気持ち悪いですね」


副将が聞いてきたが、私は答えられなかった。


「襄武城に使者を。費将軍に状況を知らせるように伝えよ」


副将にそう言い、入城した。二千人を城内に入れ、残りは城外に野営を()いた。私は野営に帳幕を作り、蜀軍に備えた。


だが、山の囁きしか聞こえて来なかった。


――まさか、攻めて来てない?


七日後、使者が血相を変えて帰ってきた。


「郭刺史、大変です! 費将軍が蜀軍と交戦中。将は魏延と呉懿です」


「なに?! 補給線は切っている。なぜ出られる?」


「羌です。羌族が兵と食糧を差し出したようです」


拳を握り込んだ。爪が掌に食い込んだ。しばらく、机の上の地図を見ていた。握り込んだ拳でその机を殴った。


「裏から攻める! すぐに出発する!」


兵二千を城に残し、残り五千を率いて山道を北上した。


陽谿(ようけい)に差し掛かるころ、風に煙と血の臭いが乗ってきた。私は行軍を急いだ。


道に死骸と踏み荒らされた魏の旗が散乱していた。前を見るとその光景が続き、その先に土煙が舞っていた。


鐙に乗せた足が細かに震えだした。だけど目は開き、視界が色鮮やかになった。


――交戦している兵はせいぜい二千。


「行くぞ!」


私は馬に鞭を打った。


馬上から振り返れば、そこには数千の瞳が見えた。私の後に騎馬兵が続き、その後ろに歩兵が、さらに後ろに強弩兵。


誰かが上げた声が、後ろへ伝わった。槍の穂先が陽を返し、細かな光が山道に散った。


喉の奥が熱い。吸い込む空気は、砂塵と馬の汗に満ちていた。


「進め!」


意識なく自らの口から放たれた声が、山肌に反射して自分の耳に入っていた。


蜀軍の旗が見えてきた。


「突撃ーッ!!」


私の掛け声のすぐ後に、野太い声が通った。


「者共、今だ!」


後ろで聞こえていた雄叫びが消えた。


「ぎゃあああ!」


代わりに断末魔が聞こえた。後ろを振り向いた。魏の旗が、ぱたぱたと蜀の旗に変わっていき、魏兵が斬られていく。


……策にやられた。

 

「……あ……あぁ」


声が喉につかえた。


何か気配を感じ、即座に前を向き直した。


遠くから、自分に(やじり)が向かっていた。避けようとしたつもりだった。だが、身体は動かなかった。


視界から色が抜けた。


白く沈んだ景色の中で、鏃の先だけが太陽を返していた。


その光がどんどん大きくなっていった。


それでも身体を動かせなかった。頬を伝う汗を感じ、目を瞑った。


「郭刺史!」


兵のひとりが私の手を掴み、馬上から私を引き落とした。視野の端に矢が走るのが見えた。


「郭刺史、諦めないでください!」


その若者は、私の肩に手を置き、叫んだ。


私は遠くに飛び交う矢と舞い上がる土埃をただ眺めたいた。心臓だけが痛いほど鳴っていた。


それでも、少しずつ視界に色が戻ってきた。


「……すまない……助かった。名は?」


游奕(ゆうえき)と申します」


游奕はそう言いながら、自分の肩を私の肩の下に入れ、私を立たせた。


「互いに生きていたら、褒美を与える」


私は再度馬に飛び乗った。遠目でも、鎧を着慣れた肩と背に厚みがあり、立っているだけで前線指揮官と分かる男がいた。


……あいつが魏延か。


頬の締まった角ばった顔に、濃色の武官装束と甲冑。ゆっくり私を見て、私に近づいてきた。


「やけに細いが、おぬし、将か? どうする、降るか。さもなくば斬る」


濃い眉の下に深く刺すような目つきがゆっくり私を見た。腿の内側に力を入れて、足の震えを止めた。大きくひとつ呼吸をした。そして言った。


「お前にその余裕があるか? 陽平関は落とした。そなたらに補給は来ない。戻るなら今しかないぞ」


魏延は高々に笑って、それから言い放った。


「若造、嘘は良くないな。それなら、これだけ早くここには来れん」


私は体の震えを隠しながら、笑い返した。


阿呆(あほう)か!? 空の城など百人で落とせるわ。戻らなくて良いのか?」


魏延の顔が変わった。槍筋が見えた。私が屈んだ上を、槍が通った。


「全軍、引け! 陽平に急ぐぞ!」


魏延が号令をかけた。蜀兵が一斉に引いていった。その後には、魏兵の屍が遥か先まで横たわっていた。


それを下に眺めながら馬を走らせ、魏軍の陣営に辿り着いた。


帳幕の中では、憔悴(しょうすい)した費曜が行き場もなく歩き回っていた。


「費将軍、遅れてすまぬ」


私は頭を下げた。費曜はようやく私に気づき、歩きを止めた。私を見て言った。


「郭刺史……裏の裏の裏のその裏をかかれた」


「虚勢が効いた。とにかくやつらは引いた。我らも襄武に引こう」


退却の号令をかけたとき、一万いたはずの兵は数百人になっていた。襄武城に戻る道すがら、話す兵はただの一人もいなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。