第三十五話 裏の裏
日が完全に昇っても、室に差し込む光は白くならず、雨音だけが耳に入っていた。費曜が欠伸をしながら入ってきた。
「郭刺史、ずっと起きておったのか?」
「まさか。先刻起きたところだ」
私は地図に目を向けた。手で陽平関から下弁までの道をなぞった。
「駒が足りんのだ。私が囮で出撃した後に、急ぎ北に戻るしかない」
費曜が小さな竹簡に軍名を書いた新しい駒を見せてきた。
「昨日、斥候から情報が戻ってきて、私も考えてみた」
私は不格好な竹駒を見て、それから費曜の顔を見た。
「曹真軍は大雨で足止めらしいが、張郃軍、司馬懿軍共に、順調に進軍している」
私は地図ではなく、駒を動かす費曜の横顔を見た。目の下に隈ができ、頬の肉が落ちていた。費曜は蜀の駒を動かした。
「だから蜀軍も大半は動けない。西を攻めるなら当然、陽平関から軍を出すしかない。いや、もう出しているかもしれん」
「……それはそう……だな」
「そこで、わしが北回りで隴西から南下。郭刺史は南西に、陰平を目指す」
――下弁が空く。やはり、駒が一枚足りない。
費曜が一瞬、顔だけこちらを見た。私は地図上で動かされた司馬懿の竹駒を見ていた。
「大将軍にさらに遡上してもらおう。待機するくらいなら、陽平へ向かってくれるだろう」
思わず指を鳴らし、費曜の方を向いた。
「……費将軍! それだ!」
費曜と目が合った。費曜の口元がゆっくりと上がった。
それから司馬懿の軍営へ急ぎ使者を送り、私達はそれぞれ軍を進めた。費曜に魏兵三千を与え、私は魏兵二千を前に、降った蜀兵五千を後陣に組み入れた。
費曜は防御線確保のため北西の襄武城に向かい、私は補給線を断つため、西方面、沓中城の制圧に向かった。
私にとっては初めて単軍での攻城戦になった。
ところが、沓中城に兵は見当たらず、門番兵もあっさりと降伏を認めた。
「……なにか気持ち悪いですね」
副将が聞いてきたが、私は答えられなかった。
「襄武城に使者を。費将軍に状況を知らせるように伝えよ」
副将にそう言い、入城した。二千人を城内に入れ、残りは城外に野営を布いた。私は野営に帳幕を作り、蜀軍に備えた。
だが、山の囁きしか聞こえて来なかった。
――まさか、攻めて来てない?
七日後、使者が血相を変えて帰ってきた。
「郭刺史、大変です! 費将軍が蜀軍と交戦中。将は魏延と呉懿です」
「なに?! 補給線は切っている。なぜ出られる?」
「羌です。羌族が兵と食糧を差し出したようです」
拳を握り込んだ。爪が掌に食い込んだ。しばらく、机の上の地図を見ていた。握り込んだ拳でその机を殴った。
「裏から攻める! すぐに出発する!」
兵二千を城に残し、残り五千を率いて山道を北上した。
陽谿に差し掛かるころ、風に煙と血の臭いが乗ってきた。私は行軍を急いだ。
道に死骸と踏み荒らされた魏の旗が散乱していた。前を見るとその光景が続き、その先に土煙が舞っていた。
鐙に乗せた足が細かに震えだした。だけど目は開き、視界が色鮮やかになった。
――交戦している兵はせいぜい二千。
「行くぞ!」
私は馬に鞭を打った。
馬上から振り返れば、そこには数千の瞳が見えた。私の後に騎馬兵が続き、その後ろに歩兵が、さらに後ろに強弩兵。
誰かが上げた声が、後ろへ伝わった。槍の穂先が陽を返し、細かな光が山道に散った。
喉の奥が熱い。吸い込む空気は、砂塵と馬の汗に満ちていた。
「進め!」
意識なく自らの口から放たれた声が、山肌に反射して自分の耳に入っていた。
蜀軍の旗が見えてきた。
「突撃ーッ!!」
私の掛け声のすぐ後に、野太い声が通った。
「者共、今だ!」
後ろで聞こえていた雄叫びが消えた。
「ぎゃあああ!」
代わりに断末魔が聞こえた。後ろを振り向いた。魏の旗が、ぱたぱたと蜀の旗に変わっていき、魏兵が斬られていく。
……策にやられた。
「……あ……あぁ」
声が喉につかえた。
何か気配を感じ、即座に前を向き直した。
遠くから、自分に鏃が向かっていた。避けようとしたつもりだった。だが、身体は動かなかった。
視界から色が抜けた。
白く沈んだ景色の中で、鏃の先だけが太陽を返していた。
その光がどんどん大きくなっていった。
それでも身体を動かせなかった。頬を伝う汗を感じ、目を瞑った。
「郭刺史!」
兵のひとりが私の手を掴み、馬上から私を引き落とした。視野の端に矢が走るのが見えた。
「郭刺史、諦めないでください!」
その若者は、私の肩に手を置き、叫んだ。
私は遠くに飛び交う矢と舞い上がる土埃をただ眺めたいた。心臓だけが痛いほど鳴っていた。
それでも、少しずつ視界に色が戻ってきた。
「……すまない……助かった。名は?」
「游奕と申します」
游奕はそう言いながら、自分の肩を私の肩の下に入れ、私を立たせた。
「互いに生きていたら、褒美を与える」
私は再度馬に飛び乗った。遠目でも、鎧を着慣れた肩と背に厚みがあり、立っているだけで前線指揮官と分かる男がいた。
……あいつが魏延か。
頬の締まった角ばった顔に、濃色の武官装束と甲冑。ゆっくり私を見て、私に近づいてきた。
「やけに細いが、おぬし、将か? どうする、降るか。さもなくば斬る」
濃い眉の下に深く刺すような目つきがゆっくり私を見た。腿の内側に力を入れて、足の震えを止めた。大きくひとつ呼吸をした。そして言った。
「お前にその余裕があるか? 陽平関は落とした。そなたらに補給は来ない。戻るなら今しかないぞ」
魏延は高々に笑って、それから言い放った。
「若造、嘘は良くないな。それなら、これだけ早くここには来れん」
私は体の震えを隠しながら、笑い返した。
「阿呆か!? 空の城など百人で落とせるわ。戻らなくて良いのか?」
魏延の顔が変わった。槍筋が見えた。私が屈んだ上を、槍が通った。
「全軍、引け! 陽平に急ぐぞ!」
魏延が号令をかけた。蜀兵が一斉に引いていった。その後には、魏兵の屍が遥か先まで横たわっていた。
それを下に眺めながら馬を走らせ、魏軍の陣営に辿り着いた。
帳幕の中では、憔悴した費曜が行き場もなく歩き回っていた。
「費将軍、遅れてすまぬ」
私は頭を下げた。費曜はようやく私に気づき、歩きを止めた。私を見て言った。
「郭刺史……裏の裏の裏のその裏をかかれた」
「虚勢が効いた。とにかくやつらは引いた。我らも襄武に引こう」
退却の号令をかけたとき、一万いたはずの兵は数百人になっていた。襄武城に戻る道すがら、話す兵はただの一人もいなかった。




