第三十四話 涙枯れるまで
蜀軍が西方から長安を狙えるようになり、私は上邽から動けなくなった。
『また正月の餅つきができなくなりました。統、成と共に、気丈にお暮らしください』
そう文にしたため、王氏に送った。私は、毎日ひとり、中庭の銀杏を眺めていた。
その銀杏が色づきだした太和四年八月、長安から使者が命令を携えてきた。
「西より漢中へ、費曜と共に進軍せよとのこと」
「漢中? 攻めるのか?」
「曹真大司馬の策により、漢中を四方向から囲むとのことです」
唇を片方だけ結び、視線を壁の地図に上げた。
漢中の広い盆地。西から東へ漢水が流れている。秦嶺の山並みを越えて、その北東に長安、北西に上邽がある。
「大司馬は長安より南下、司馬懿大将軍は東から漢水を遡上、張郃車騎将軍は褒斜道を取るとのこと。郭淮刺史は西端の補給線を叩くことになります」
「わかった。すぐに用意しよう。今日は休め」
間髪入れずに使者にそう返した。
私は、兵二千を引き連れて、祁山城に入った。
祁山に駐在を命されていたのは、費曜だった。体は決して大きくなく、彫りの深い顔立ちに、手入れされた顎鬚が特徴的な男だ。
地図を開き費曜と軍議を開いた。
「郭刺史、何か引っかかるのか?」
「はい」
私は、地図の上で祁山城から漢中西端の陽平関に木駒を動かした。
「我らが補給線を断とうと陽平を目指せば、当然、陳倉は手薄になる」
費曜が、指で陳倉を軽く叩き、自慢気に木駒を動かした。
「下弁を攻め、それを誘ってから、陳倉道で挟みうちするのだな」
「諸葛亮は知に酔っている。裏の裏をかく」
「……なんと?」
私は語気を強めて、蜀軍の木駒を西に動かした。
「蜀軍は、陳倉への進軍を囮にして、さらに西から隴西を落とし天水を狙うだろう」
次に魏軍の三つの木駒を動かした。
「私と費将軍で下弁を攻略。蜀軍が西に入る。その間に、郝将軍が南下。兵を集めて下弁へ」
費曜は顎をさすりながら、その木駒の動きを見ていた。
「それから私が、囮で下弁から陽平に出る。敵が薄いはず。落とせるなら落とす。その間に、費将軍は北上、郝将軍は西に向かう。これで挟み撃ちになる」
費曜は「うん、うん」と何度も頷きながら、聞いていた。目を閉じ、少しだけ黙ってから答えた。
「……裏の裏の裏か。よし、それで行こう」
私は、使吏を呼び出し伝令を出した。
「陳倉の郝昭に周辺の兵を集めながら下弁に向かうよう伝えよ。王生は引き続き陳倉の守備を」
すぐに費曜と共に、祁山から建威―武都―下弁と蜀兵を降伏させ、兵糧を集めながら進んだ。将のいない城は数日で落ちた。下弁に入る頃には、総兵数は一万を超えた。
城内外に野営を敷いて五日後、広がる兵営を城壁の上から眺めて、費曜が顎髭を撫でながら言った。
「郝将軍が遅い。待ちが長いと士気が落ちる」
城壁の上から、明らかに寝ている兵たちが多数見えた。そこに王生がやってきた。
「郭刺史、お待たせした。王生、今、馳せ参じました」
その顔を見て、私は青ざめた。
「明日には副将が兵三千を連れて到着します。それまでに策を」
「……そうじゃない」
喉から声を絞り出した。王生は笑顔で私を見続ける。費曜は首を傾げて髭を引っ張っている。
「……郝将軍はどうした?」
「先日、病気で亡くなられました。今は、私が陳倉を守っております」
バクンと心臓の音が聞こえた。こめかみが締め付けられた。膝の力が抜けた。それでも気丈を保ち声を絞った。
「なぜ報告しなかった? そして、なぜお前は今、ここに来た?」
王生は笑顔で答えた。
「報告すれば、違う太守が送られるでしょう。私は、この機会を待っていました」
頭に熱が帯び、視界が下から消えていった。そのまま意識を失った。
目を覚ますと床に寝かされていた。私は、胸に巻かれた布の手触りを確かめた。
起きて床から出ようとした時、王生と費曜がちょうど部屋に入ってきた。王生の顔を見て、私はすぐに立ち上がり、その胸倉を掴んだ。
「お前は何をしたのか分かってるのか!」
費曜が慌てて、私を王生から引きはがした。王生は立ったまま目を見開いて口をへの字にした。私は叫んだ。
「権限のないお前が三千の兵を集められるわけがない!」
費曜が私の言葉で固まった。そして小さく呟いた。
「……陳倉から連れてきた……陳倉は…今…もぬけの殻だ」
「攻め上がられたら、囮であっても落ちる。お前、斬首どころではないぞ」
私がそう言うと、ようやく王生の顔から笑みが消えた。
「即刻陳倉に戻れ! 堅く守備せよ」
「はいっ」
王生は声を裏返し、走って部屋を出ていった。
「……はぁ」
大きなため息と同時に床に腰かけた。費曜が私の前に立って言ってきた。
「郭刺史、一万もいればそうそう負けますまい。我らで功を立てよう」
「……それしかないか」
部屋に差し込む夕日が足元だけ色を変えていた。私はその色をしばらく眺めていた。
「少し、時間をくれぬか」
そう言って、荷物の中から麻袋を持って、部屋の外に出た。
炊事場に向かい小釜を取った。そこに麻袋から米を取り出し水と一緒に加えた。それを持って角楼に上った。油灯から火を薪に移して、小さな焚火を作った。そこに小釜を入れて、米を炊いた。
小釜から噴き出る泡をじっと見た。蓋の隙間から鳴る高音が角楼から抜けた。
米が炊けると麻袋から取り出した塩を混ぜ、おにぎりを握った。それに味噌を塗り、木串に刺した。
火の揺らぎを見つめながら、その焼きおにぎりを、ひとつ頬張った。
塩味が、どんどん濃くなった。
口元を触った。目から流れた涙が口元に流れていた。
もうひとつの焼きおにぎりを外に放り投げた。
手を合わせて、目を強く閉じた。首の下が痙攣した。顎がそれに引っ張られた。
目を開けて城の外を眺めた。野営の灯が、地に天があるように瞬いていた。
焚火が消えると、濡れた頬が、夜風で冷やされた。
部屋に戻ろうと楼の階段を降りた。コツンコツンと私の足音が壁に跳ね返った。その音の感覚はいつもよりもゆっくりだった。
湯を持って部屋に入った。桶に湯をはり、布を浸した。着物を脱いで、手の先から拭いた。二の腕まで拭き終わり、胸に巻いた布を解いた。
自分の胸を下から手で持ち上げた。また、涙が溢れた。
その日だけは、ゆっくりとゆっくりと、全身を拭き上げた。
寝台に横になると、冷えた衾を肩まで引き上げた。嗚咽で体がひくひくと動いた。眠りにつくまでずっと、私は泣いていた。
外では大粒の雨が降り出した。はじめは軒を細く叩くだけだった音が、夜半には雷を連れて、城の上を過ぎた。
その音を聞いているうちに、涙が枯れぬまま、夜が明けた。
窓の外が少しずつ橙へと明るんでいった。
私は衾から出た。廊はまだ暗い。
油皿を持ち、ひとり軍議の室に入った。
地図を眺め、蝋板で計算しながら、何度も駒を動かした。




