第三十三話 会いたかった
陳倉城を死守した功を称えられ、郝昭は列侯の爵位を与えられることとなった。
翌年の春先。郝昭は授与のため洛陽に向かっており、その途中、長安の私の官舎に寄っていた。
私と郝昭のふたりは、母屋の中庭が見える廊に腰かけていた。庭の木の葉から雪解けの水が落ち、ぽたり、ぽたりと廊に音を置いていた。
目の前で、もう私とほぼ背丈の変わらない統が、成を相手に剣の稽古をしていた。
その統と私を見比べて、郝昭が笑いながら言った。
「穂泉殿の子は、親に似ず、太い体をしておりますね」
一瞬だけ眉が動いた。私も合わせて笑いながら答えた。
「……本当に」
そこに、まだ幼い侍女が、ふらつきながら、茶を注いだ盞を二つ、盆に載せて持ってきた。
「淮様、茶をお持ちしました」
「ありがとう、采。戻って文字の勉強をしておいで」
侍女はペコリと頭を下げて、パタパタと足音を鳴らして奥に戻っていった。
「あの子も、郭家の者ですか?」
「いえ、孤児です。天水の巡察中に道で倒れていたので」
「なぜ拾ったのです?」
――私も拾われたから
「……」
私は思うことを口には出さず、代わりに茶を飲もうとした。思っていたより熱く、口をつけてすぐに放した。
半刻ほどだけ話をして、出立する郝昭を門の前で見送った。
「それでは、行ってまいります」
「どうぞお気をつけて」
ゆったりと馬に乗り遠ざかる大きな背中が見えなくなるまで、私は門の前に立っていた。庭の桜は、まだ蕾のままだった。
その蕾が桜吹雪となり舞い散った後、官廨にて、漢中に駐在していた諸葛亮にまた動きがあると報告を受けた。
「陰平に向かって陳式が進軍中」
私は斥候にたずねた。
「諸葛亮は?」
「漢中に駐在。陳式軍のみ、兵数は約三千です」
「わかった。歩兵、弩兵を千ずつ用意せよ。すぐに出立する」
武都・陰平方面には、陳倉まで渭水沿いを上がり、そこから南西に山を越える。長安を出立して六日目の日暮れ前、陳倉城に到着した。
私が知っている陳倉城に比べると一回り大きいように感じた。門の前の兵に聞いた。
「長安の郭淮だ。郝将軍は洛陽からお戻りか?」
「はい」
それを聞いて、私は副将に命じた。
「日が落ちてきた。今日は陳倉で休む。明日早朝に出立する」
副将はすぐに返答した。
「進言します。兵はまだ元気です。補給だけして進んだ方が良いのではないでしょうか?」
少しだけ考えた。いや、考えたふりをした。
「いや、陳倉道は過酷だ。その前に英気を養おう」
「……しかし」
「少し待て。郝将軍に話を通してくる」
私はそう言って、門番に門を開けさせた。郝昭はちょうど兵の訓練をしていた。
「伯道どの、ここで兵を休ませてもらえませんか?」
「穂泉どの? どうしました? 戦ですか?」
「蜀が、陰平に進軍しました。兵を千ほどお貸しいただきたい」
「なぜ私に出撃させなかったのですか?」
私は一拍置いて答えた。
「伯道どのには、陳倉を守って頂かねばなりませんから」
「……なるほど。では、どうぞ、兵を城内に入れて休ませてください」
「助かります」
副将に城内で営を敷くよう命じ、郝昭とその様子を城壁の上から眺めた。火が立ち幾つもの竈から湯気が上がり、夜空に混ざっていた。
私は会話を待ち切れず、持っていた疑問を郝昭にぶつけた。
「……ところで、伯道どの」
「はい、なんでしょう?」
「あの戦で、ここの兵糧は十日ほどしかなかったはずです。なぜ二十日以上も戦えたのですか?」
郝昭が、ゆっくりと口角を上げていった。
「先日に頂いた新しい乾飯のおかげです」
「あの焼きおにぎり?」
「焼きおにぎりと言うのですか。素晴らしい発明です」
私は、顔を拭くふりをして、袖の縁で口元の緩みを隠した。
「……と言いますと?」
「塩や豆醤は、飯につけて食うもの。だが、焼きおにぎりはそれを混ぜただけ」
郝昭は手を広げて、指を折りながらひとつひとつ説明した。
「大事なのは、麦に少しの米を混ぜて炊く。これで握れる」
私はずっと、話す郝昭の口元を見ていた。
「そして表面を焼く。表面が硬くなり、咀嚼が増える。これで食う量が減る。腐敗も防げる。混ぜて焼くだけで、兵糧の無駄が無くなる」
全ての指が折れ曲がって、握った拳を見せてきた。
「……私には、炊く、焼くと言う発想が無かった」
郝昭は自分の拳を見た。私は少し首を傾げて聞いた。
「でも、豆醤はともかく塩は高級でしょう。それだけの量をどうやって手に入れたのですか?」
「大したことはありません。豆醤も塩も兵士全員の手持ちを集めました」
「それでも塩は足りないでしょう」
郝昭は顎をくいっと上げ、目を見開いて笑った。
「あの時に、穂泉どのが言っておったでしょう」
そう言って、郝昭は城壁の下にいる男たちへ手を振った。袍の合わせ方も、髪の結い方も漢人とは違っていた。馬の手綱を握って立つ少年が、笑顔でこちらに手を振り返した。
「彼ら、休屠胡にお願いしたら、回してくれたのです」
「……なるほど」
「これでも長年、涼州の氏族を抑えてきましたので」
その自慢げな表情に、私も自然と笑みがこぼれた。
次の日の夜明け前、陳倉城を出立した。郝昭はまだ寝ていた。
「よし、行こう」
ちょうど夜が白む頃、陳倉道の入り口に着いた。目の前には木が生い茂る山道があった。
ここから、大散関を経て、各県城で少しずつ兵と兵糧を補給しながら陰平を目指す。
後ろを振り返ると、遠くに小さく陳倉城が見えた。風が吹き、巻きあがる砂が時々、その姿を隠していた。
その七日後に、陳倉道の途中にある故道に着いた。集落、谷筋にも人家があり、小規模な倉や役所機能もあった。
数は少ないが宿もあった。兵は野営で休ませ、私は、戦略を立てようと宿に入った。
宿の部屋で、地図を広げ、陳倉から陰平に至る道を眺めた。陳倉から南西に真っすぐ山を登ると、下弁、武都を経て、陰平に着く。
ひとつ頷いた。
もうひとつ陳倉から北西に上がり上邽から武都へ南下する道があった。そこに建威県があった。
「……しまった! 私なら建威を先に抑える」
私は地図を見ながら立ち上がった。
――陳倉道経由なら武都で挟み撃ち。上邽経由なら建威で足止め。その間に陳式が陰平と武都を攻略。
急いで、山の勾配を考慮して、軍行日数を計算した。
「陳倉から武都まで十六日。漢中から建威まで十一日。五日差……」
――斥候が諸葛亮を見て、四日後出ても……待ち伏せされる……
私は迎撃を諦め、迂回を決めた。下弁から北上し、建威を避けて上邽を目指した。上邽に着くより先に、武都、陰平の二郡を蜀に奪われた。
上邽城に入り、床についても眠れなかった。廊に出て柱に寄り掛かり、中庭を見た。
「……だって会いたかったもん」
梅雨の満月が石苔に残る水滴を、明るく静かに照らしていた。




