第三十二話 十日分の城
街亭の戦から季節が移り、魏は今度は東南で孫権の呉と衝突した。長安でも物資不足となっていた。
涼州・雍州から人夫と兵糧を掻き集めて南方へ送り、木材や石は陳倉へ回した。運ぶ牛も馬も足りなかった。私の机には未処理の木簡が積み重なっていた。
官廨内では怒号が飛び交い、街に出ると誰もが静まり返っていた。
追い打ちをかけるように、石亭にて大敗、何万もの兵を失ったと噂が流れた。
「長安も危ないのではないか?」
「荊州が取られてたら、呉と蜀とに挟み討ちだからな」
「呉は、司馬懿様でも抑えられなかったんだろ」
「いっそ、逃げるか?」
こんな会話が長安の至る所でなされていた。
その雰囲気を少しでも明るくしたくて、私は、商人に杵と石臼を用意させていた。
元日も近づく夜、いつもの庭を望む部屋で、届いた石臼と杵を布で拭いていた。それを見た統が聞いてきた。
「父上、これは『餅つき』の準備ですか?」
「そう」
「なぜ、一月一日に行うのですか?」
私は左上を見た。
「……なんでだろう? おめでたい気持ちになるからかも」
問答を聞いていた王氏が、珍しく声を上げて笑った。そして笑いながら聞いてきた。
「淮様、おめでたい気持ちとは、なんなのでしょう?」
「なんなんだろう? でも、ほら、年の初めくらいは笑いたいじゃないか」
「父上、意味がわかりませぬ」
王氏も統も一緒に笑い出した。私は次の言葉が無くなり、ただ石臼の底を撫でていた。そこに早馬の知らせが駆け込んできた。
成の制止を振り切ろうとしたらしく、衣はひどく乱れていた。
「郭刺史!」
「何事だ。夜更けに」
「申し訳ございません。ですが……」
「ですが、なんだ?」
斥候が唾を飲み込んだ音が聞こえた。
「陳倉が蜀軍に包囲されました」
私は声の震えを抑えて言った。
「すぐ行く」
それから王氏と統の方に振り向いて言った。
「すまぬ。餅つきはできぬかもしれん」
王氏が大きく頷き、姿勢を正した。すぐには口を開かなかった。
重ねた手を、一度だけ握り込んだ。統も立ち上がり背筋を伸ばした。
「淮様、私はあなたを誇ります。統もまた、あなたを見て育っております」
私は王氏のその姿を黙って見ていた。いや、見惚れていた。
「いってらっしゃいませ」
王氏は手を床に揃え、頭を下げた。統も合わせて頭を垂れた。
「私は……良き妻をもらった」
私は夜の官廨に向かった。軍議の室には、すでに県令・属官・軍吏らが集まっていた。
「状況を聞かせよ」
「蜀軍は、諸葛亮が数万と思われる兵で陳倉城を包囲。陳倉城の兵は千と少し。郝昭将軍、王生将軍が対応しております」
「援軍は?」
「曹真様の命で、費曜将軍、王双将軍が騎馬兵で向かっております。その数、二千」
――少なすぎる。
「なお、曹叡様の命により、張郃将軍がこちらに向かう手筈となっています。それまでに兵を集めよ、と」
洛陽から張郃がいる宛城まで驛騎を使っても四日。それから張郃が長安に着くには早くても六日。私が今報告を受けているのもすでに数日前の情報だった。
「各位、朝まで休め。それまでに兵の算段はつけておく」
私は自分の室に入り、席の周りに油皿を並べて灯りを作った。
――騎馬なら一刻で六十里近く。軍行なら十里。
六日で長安に兵が到着する城を列挙した。兵糧、馬、弓矢は長安からだけでなく、陳倉周辺の城の備蓄を推定し、輸送プランを練った。
夜が明けて、私は机に突っ伏して眠っていた。使吏に肩を揺らされ、起こされた。
「郭刺史、起きてください。各人、すでに集まっております」
私は飛び起きた。その顔のまま、プランをまとめた紙を使吏に渡した。
「県令に、この通りに進めるよう伝えよ」
私はそれだけ命じると、長安の西にある郿塢に駐在する曹真の元へ走った。そこは、かつて董卓が築いた城塞だった。
「曹真殿! 間に合いません! 私に出撃を命じてください!」
私は回廊で曹真を見つけるなり、頭を下げた。
「ならん! 長安に待機せよ」
曹真は一喝した。私は下がらなかった。言葉を止められなかった。
「なぜでございますか!? 三千では足りませぬ。張郃殿が着くまでに落とされます」
私は曹真の袖を持った。曹真はそれを払い、ひとつ息を吐いた。
「……郭淮、よく聞け。心配なのは分かるが、おぬしが行けば、誰が補給と輸送を担うのだ?」
「……」
「おぬしの才は戦ではない。将らを信じよ」
私は回廊で下を向いて立ち尽くした。曹真は私を見ることなく歩いていった。
曹真が見えなくなったころ、私は下を向いたまま、馬の元に向かった。馬が私を見て顔を擦りつけてきた。私は馬の首元を撫でた。
「疲れたよね。急がせて、ごめんね」
私は馬の首に顔を埋めて泣いた。ひとしきり泣いた後、馬を引いて候舍に向かった。
長安に戻り、私はただ心の中で祈っていた。
その十日後、張郃が長安に着いた。戦闘からすでに二週間は経っていた。
張郃は、鎧姿のまま私の前に現れた。
「穂泉、どれだけ集めた?」
「兵が三万。馬が一万。食糧が……五日分だけです。残りは周囲の城からの補給頼みです」
張郃が天を仰いだ。上を向いた顔がゆっくりと下に降りて、私を向いた。
「十分だ。よくやった」
「でも、もう……」
私の言葉を遮るように、張郃は語気を高めた。
「郝昭を信じよ。奴は今後の魏を背負う若者だ」
私の頭をポンと叩いた。そして静かに言った。
「おぬしと共にな」
私はただ、傷と皺だらけの張郃の顔を見つめるしかなかった。
それからは斥候からの情報で、戦況を知るしか無かった。
蜀軍は、雲梯、衝車、大矢倉、井蘭など、攻城兵器を繰り出して陳倉城を攻撃した。
郝昭は雲梯に火矢を射かけて兵もろとも焼き、巨石を落として衝車を押し潰した。
蜀軍が井蘭から矢を放ち、城壁を登れば、郝昭は、余った資材で内側に壁を築いて侵入を防いだ。
蜀軍が城外から内部へ入るトンネルを掘れば、郝昭もまた穴を掘り、横から蜀軍を撃退した。
――あれは、私にはできない。
結果的に、張郃が陳倉に到着したころには、蜀軍は先に食糧不足で退却していた。
蜀軍退却の報告を受けて、ふと私は、陳倉の兵糧備蓄を調べた。十日分しか無かった。囲まれて補給できていないはずだった。
私は首を傾げた。同時に頬が緩んだ。
官廨の外に出た。あの日と同じように、冬晴れの中で雪がちらちらと舞っていた。




