第三十一話 策に溺れるな
太和二年五月下旬。枹罕の羌族を抑えた私は、祁山城に入った。張郃が街亭から入城し、曹真も趙雲軍を撃破し、祁山に至っていた。
主な将が軍議室に一堂に会したが、その顔はみな晴れやかで、どこかしこで談笑が始まっていた。
「久しぶりだな。将の風格が出てきたな」
曹真が声をかけてきた。
「自分では分かりませんが、廨より軍幕の方が合っているのかもしれません」
私は笑いながら答えた。そこに張郃が割って入ってきた。
「ところで穂泉よ。なぜあの諸葛亮の策が分かったのだ?」
「蜀軍は兵をできる限り減らしたくない。だから攻めない。そこを羌族が狙っていると予想しました。彼らに脅かされて我が軍が動けば蜀軍の的でした」
「……はぁ、すごいのぉ」
感嘆する張郃と対照的に、曹真が真顔になって言ってきた。
「しかし、姜維を失ったのは痛いな」
その言葉に、パッと曹真の方を振り向いた。
「どういうことでしょうか?」
曹真は小さく息を吐いたあと、声量を落として続けた。
「上邽で馬遵が、入城を拒否したのだそうだ。近くの城にも入場拒否を命じ、姜維も尹賞も蜀に降ってしまった」
「……では」
「もし、諸葛亮が援軍を待たずに攻めていたなら、長安まで丸腰だったな」
足元から背中に悪寒が走った。私は手元を眺めて、返す言葉を失った。
「良いではないか。結果が全てじゃ」
張郃が私を庇った。しかし、曹真の声は低く太くなった。
「良くはない。諸葛亮ではなく魏延であったなら、あるいは、街亭に諸葛亮が出て、馬謖が祁山にいたら?」
「……長安まで一気に落とされていた」
私は手元を見ながら答えた。曹真は五秒ほど私をじっと見てから、急に笑顔になった。
「それを防いだのが、わしの武功だな」
大声で笑った。張郃がそれを横目に私に言ってきた。
「策に溺れるな、ということなのだろう。次から心すれば良い」
「……はい」
三人の言葉が無くなると、曹真が声を上げた。
「郝昭! 郝昭、来とるか!」
「はい、ここにおります」
遠い席の方から声がした。
郝昭がこちらに向かってきた。
「穂泉、いたのですね。武功は聞いています」
「いえ、今しがた叱咤されておりました」
猫背のまま、顔だけを上げて答えた。曹真が立ったままの郝昭に命じた。
「敵の兵を削れてはおらん。必ずまた攻めてくる。下弁から武都を抜け、陳倉へ上がる山道を取るかもしれん。郝昭、王生と共に陳倉城の修築と増築を急げ」
「はっ。承りました」
私は、郝昭の横顔を眺めていた。
「郭淮!」
「はいっ?」
曹真の呼びかけに、声が裏返った。
「おぬしは、長安に戻り、次に備え兵糧、馬、牛、弓を調達せよ」
「承りました」
黙っていた張郃が曹真に聞いた。
「ぬしは、どうするのだ?」
「長安に戻る前に、三郡全て取り返してくるわい」
曹真はまた大声で笑った。
「さて、わしは、すぐに兵を連れて荊州に戻らねばならん。またしばらくのお別れじゃ。みな無事でな」
そう言って張郃は席を立った。それを見て曹真も席を立った。私も郝昭も互いに礼を交わして、席を離れた。
次の日の早朝。私は炊事場にいた。朝の炊き出しで、麦と米の粥が作られていた。
「すまないが、少し分けてもらえないだろうか?」
兵が驚いた。だけど、私の顔を見て、すぐに笑顔になった。
「郭刺史に逆らうと、兵糧が減ってしまいますからね」
そう言って、木器に山盛りの米を分けてくれた。
私は、その米を鍋で炊き、塩をまぶして握り、表面に味噌を塗った。両面をこんがりと焼き、笹の葉でくるんで袋に入れた。
ふう、と深く長い呼吸を吐き出した。後ろでは、沸騰しはじめた竈の蒸気が、白く、静かに立ち上っていた。
私が門に着いた時、郝昭はすでに従者と共に待っていた。陳倉は、長安に行く途中にある。私と郝昭は、陳倉まで同行することにしていた。
祁山を発ってしばらくは、まだ空が広かった。だが、馬を東へ進めるにつれ、道はしだいに山の内へ折りたたまれていった。
左右の斜面は高く、陽はまだあるのに足元には早く影が落ちた。夏だと言うのに風が冷気を帯びていた。
「穂泉どの、さすがにお腹がすきましたね」
郝昭から欲しかった言葉が聞けた。
「用意してきました。これなら馬の上でも食べられます」
私は、笹の葉に包まれた焼きおにぎりを見せた。郝昭は、それを受け取り開くと、焦げた味噌の香りが漂った。
「これは? 飯……ですか?」
「はい。塩を混ぜ込み特別な豆醤を塗り焼いたものです」
「いい匂いですね」
郝昭は鼻をひくひくさせながら言った。私はくすっと笑った。
「食べてみてください。美味しいですよ」
「ほう」
郝昭は、恐る恐る焼きおにぎりを頬張った。
「これは美味い」
眉間の皺は伸び、目が開き、大きく口が開いた。胸を押さえる布の奥が火照った。
そこからは、谷はひとつ曲がるごとに狭まり、岩と木立のあいだを道が縫う。やがて関の険しさを抜けると、前方に川筋がひらけた。
乾いた土の色の向こうに耕地がのび、その向こうに低い土城が見えた。かつて、逃げ込んだ陳倉城だった。
それから夜まで、今後の魏、そして予想される戦について、陳倉城で郝昭と語った。
その夜、かつてと同じ床に横になった。牖から見える澄んだ星空は、あの日と全く同じだった。頭の中で若い自分を思い出して、笑ってしまった。
星空が白み、長安に発つ時、郝昭が門の外まで見送りに来てくれた。
「穂泉どの」
郝昭が、私の名を呼んだ。布に押された胸の中が疼いた。
「なんでしょう、伯道どの」
「しばらくは穂泉どのを忙しくさせてしまうが、よろしく頼む」
緊張した肩から力が抜けた。郝昭は手を握りしめ、瞬きは少なく、呼吸は深く、長かった。
――そりゃそうか。
「はい。やり繰りしますから、どうぞ遠慮なく請求してください」
それだけ言って、従者と共に歩き出した。
長安までは、徒歩なら七日ほど。馬でも数日はかかる。
胸元に指を入れて、そこに布が巻かれていることを確かめた。ギュッと噛みしめて、涙を我慢した。
私は決して振り返らなかった。それでも、頬に細く涙が流れた。




