第二十九話 列柳の水
太和二年春、馬遵と西部を巡察中に蜀の進軍の報告を受けた。
渭水に張った氷はすでに溶け、残った雪が黄土と共に川の中に吸い込まれていた。春の匂いよりも泥の匂いが鼻腔に上った。
「……ついに諸葛亮孔明か」
ふいに口に出た瞬間、指先が微かに震えていた。
「郭刺史、どうする?」
馬遵の話ぶりは落ち着いているものの、その目は泳いでいた。
「この兵力差で攻めてくるなら相当の策を練っているでしょう」
「だから、どうしたらよいのだ?」
私は上邽へ続く路を見た。祁山の北東にあり、長安へ向かう兵を受ける県城だった。路は細く乾いていて、まだ轍が浅い。ここで返れば間に合うかもしれない。
「馬太守、急ぎ上邽へ戻りましょう」
馬遵が息を呑んだ。
「上邽まで戻るのか? 冀の方が近いではないか?」
「だからこそ、です。この状況で攻めてこれるなら、天水郡で寝返りが起こる可能性があります。長安への道を先に防ぎます」
言葉を無くした馬遵を無視して、使者に向けて言った。
「急ぎ、姜維らに上邽に集まるよう伝えよ」
私は馬首を東に返し鞭を打った。後ろから馬遵が付いてきた。
上邽城に入ると、五百人程度の兵たちが、戦の準備に入っていた。すぐに堂の脇の小広間に入り、県令・属官・軍吏らを集めた。
「各方面の状況を報告してください」
「蜀軍は、漢中より東側、趙雲・鄧芝が箕谷に布陣。曹叡様が親征、夏侯楙様に代わり曹真様が対応しております」
「曹大将軍なら安心です。西側はなぜここまで攻められたのです?」
「西側、諸葛亮本軍が祁山に入城。趙雲軍に気を取られた模様です」
「……安易ですね。それで?」
「現在、張将軍が西方防御に備え長安にて待機」
「……理解しました。主簿、付近の地図を広げてください。道・川・関・山の情報を集めて」
案上にこの付近の地図を広げさせた。川筋、山路、関、県城、兵の置かれた場所。木簡で届いた報を、ひとつずつそこへ写した。
その間、誰も言葉を発しなかった。手製の硬い芯が地図を掻く音だけが、室に残った。
皆が引き、夜が深まっても、私は地図と各軍配備を眺めていた。
――圧倒的兵力差。これで攻めてきたなら何かある。
夜が明けて、馬遵が室に入ってきた。
「郭刺史、寝ずにやっておったのか?」
ひとつ背伸びをして、茶を一口飲んでから答えた。
「……おおよそ掴めましたが」
私は、数字と文字が書き込まれた地図を指で指しながら説明しようとした。そこに斥候が帰ってきた。
「天水・南安・安定の三郡が寝返り、蜀軍と共にさらに西方、隴西にまで進軍しております」
それを聞いた馬遵は腰を落とした。私は馬遵を起こしながら言った。
「これではっきりしました。まず、間違いなく諸葛亮本陣は攻めてこないでしょう」
「なぜだ?」
「蜀軍は少ない兵を温存したい。寝返った兵を前に出すはずです」
「だが、その奴らが攻めてくるのだろう?」
「はい。だからこそ、別に囮を置きます。こちらの兵を動かすために」
そう言って、天水郡の北部の山間部、街亭を指さした。
「攻めてくるなら、その囮に我が軍が兵を出した後です」
「……なるほど」
「祁山から長安を狙うなら、ここ上邽を通ります」
馬遵の肩が細かく震え出した。私は構わず続けた。
「まず、姜維らに周辺から兵を集めて戻ってこさせ、上邽を守護させましょう」
「……」
「囮にかかったふりをして張将軍を街亭に向かわせます。囮を相手にせずに南下すれば、そこで諸葛軍を挟み撃ちできます」
「……」
私が説明している間、馬遵はずっと何かを小声で発していた。
「馬太守! 聞いておりますか!?」
馬遵の肩が大きく撥ねた。
「は、はい!」
「では、上邽の守護をお願いします。街亭へ向かう我が軍を挟み撃ちにしようと、蜀軍が隠れているはずです。私はそこに向かいます」
私は上邽と街亭の間にある山間の小城、列柳を指さした。
使者を呼びだし、こう伝えた。
「急ぎ長安の張将軍に伝えよ。敵が正面に見えたら南下せよ、山間なら水路をおさえよ、と」
すぐに私は上邽で鎧を借り、百人の兵だけを連れて列柳城を目指した。蜀軍と遭遇するのを避けるため、渭水を東へ取り、臨渭から徒歩で北上した。
「郭刺史、わずか百人で副将も付けぬとは、危険ではありませんか?」
近衛が聞いてきた。
「大丈夫ですよ。諸葛亮はきっと自分が負けるとは思ってませんから」
「どういうことでしょう?」
「良いから私を信じてください。とにかく静かに登ってください」
私はそう言って、布を頭からかぶった。
二日かけて列柳城近くに到着すると、兵を隠して待機させた。物見に行かせた兵が返ってきた。
「郭刺史の予想通りです。蜀軍は旗を立てずに列柳城に立てこもっています。兵数は不明」
右手に思わず力が入った。私はこの付近を書き写した地図を開き、列柳城へ向かう水脈を確かめた。
「兵長、副長、ここへ」
「はい」
「二十人を連れて、この小さな川を土砂で崩して埋めてください。水の流れが変わるように」
「はっ」
「副長は十人で支流に竹網を張り、魚を集めてください」
「はっ」
「残りの兵は五人一組で、火を焚き、竈を据えてください。街亭に向かう道を防ぐよう配置してください」
そう命じて、私はまた地図に目をやった。
七日が経った。列柳城への水源は絶たれ、流れが変わった川の横には捕った川魚が積まれていた。
「……そろそろだな」
兵長を呼んだ。
「捕らえた魚と持参した干し肉を火に加えてください」
「もったいなくありませんか?」
「それで蜀軍を抑えたら、それ以上の褒美が頂けますから」
私は笑って言った。兵長は笑わず、唾液を飲み込んでから、頷いて戻っていった。
小さい山城のまわりは、魚と肉を焼いた匂いをまとった煙で充満した。
「さて、行きましょう!」
私は百人を引き連れ、列柳城の正門に向かった。門番のひとりも立っていなかった。門の前に立ち、声を張った。
「蜀軍の兵たちよ! そこに隠れているのだろう。聞け、私は魏将郭淮だ!」
門の上から兵が頭を出して、矢が一斉に向いた。同時に、こちらの兵も矢を向けた。私はさらに声を張った。
「おぬしらは完全に包囲されている。水源も奪った。今、こちらに降れば、水と肉を与えよう」
私に向いた矢の幾つかが天を指した。
「我らは攻めぬ。だが、城からも出さぬ。後は、おぬしらが決めよ」
門の上の兵たちが互いに顔を見合わせだした。私は、それを見た後、敵に背中を向けて陣中に戻った。
一日もしないうちに二百人以上が投降し、次の日には門が開けられた。
兵をまとめていた高翔は夜の間に逃げており、城の中は唇の渇いた兵士たちばかりが横たわっていた。
私は、まず水を運ばせた。




