第二十八話 西からの風
郝昭の陳情からほどなくして、彼が鹿磐と共に反乱を鎮圧し、麹英を斬ったとの報が入った。
私は、それまでと同じように案の前に座っていた。昨日の夜から席を外していた間に木簡が大量に重ねられていた。一度だけため息をして、一番上に置かれた木簡を手に取った。
『蜀の諸葛亮、陽平関の白馬城に駐屯す』
――諸葛亮? あの孔明!?
私は思わず立ち上がった。となりで集計する使吏の算木の音は止まらなかった。立ったまま案の上の木簡を見て、もう一度座りなおした。
ふと横を見ると、席の横に報告を待つ使吏たちが並びだしていた。木簡の次は、彼らからの報告と陳情を聞いていく。もう一度、大きなため息が出た。
「北の馮翊にて、また帳簿に不足分が出ております」
「……またですか? 補給帳を見せてください」
同じ兵数の補給帳が三枚あった。一枚目は最初の帳、二枚目は穀で見積り直した帳、三枚目は帛で取り直した帳だった。調達に必要とされる見積り額だけが三枚とも違っていた。
「それで? また誰かを罰するのですか?」
使吏はすぐに返事をしなかった。私は返事を待たず、帳簿の食い違いを三枚の木簡に書き写した。
――せめて通貨が戻らないと……。
書き写した三枚の木簡を史に渡し、伝えた。
「わかりました。ですが、不足分は補充できません」
使吏が去ってから、私は木棚から埃を被った簿籍を取り出した。
「……洛陽を治める河南尹、司馬芝……か」
三枚の木簡を抱えて、役人たちに伝えた。
「少しの間、席を空けます」
それだけ言って、驛で馬を替えながら、洛陽に向かった。
四日後に洛陽の官廨に着くと、私は司馬芝の席に走った。
「なんだ、おぬしは?」
私を見るなり、司馬芝は手の甲を振った。
「雍州刺史郭淮にございます。ぜひ陳情をお聞きくださいませ」
私は手を付き、床に額を付けた。
「遠い所ご苦労だったが、帰れ。個人的な陳情は聞かぬ」
頭をそのままに上目だけで司馬芝を見た。私を見下ろしていた。
「蜀が漢中に来ております。長引く羌族との闘いと南方への物資支援により、長安はもう持ちませぬ」
「知らぬ。それはおぬしが任に堪えぬだけではないか」
私は、言葉に返答せず、懐から用意してきた三枚の木簡を出して司馬芝の前に見せた。
「……何が言いたい?」
「司馬殿ほどの方であれば、お分かりになるかと」
「どれが正しいのだ?」
ここで私は頭を上げた。
「どれも正しいのです」
「合っておらぬではないか」
「穀帛をもって帳を立てる限り、合いようがないのです」
「帳が違うたびに、吏が誰の落ち度かを書き足し、罪人が作られています」
司馬芝はしばらく黙っていた。やがて三枚を揃え、自分の袖の中へ入れた。
「これは貰っておこう。去ね」
司馬芝は自分の席から立ち、頭を下げる私に目もくれず歩いていった。私はそれ以上何も言わず、頭を下げ続けていた。
翌月、再び五銖銭の使用を許可する令が下された。長安の官廨では、安堵のため息と歓声が同時に沸き上がった。
その朝、遠くで馬のいななきが聞こえた。
五銖銭の復活で官廨は落ち着きを取り戻しつつあった。休みの朝、庭で寧が衣を干していた。私は外に竈を出して大豆を煮ていた。干し終わった寧が廊の端に腰を掛けて、話しかけてきた。
「穂泉? それは何をしているのですか?」
「味噌を作ろうかなって。ここに麹と塩を入れれば、簡単にできる」
「それは豆醤ではないのですか?」
寧が首を傾げた。
「そうね。基本は一緒。違いは塩があるかないかくらい。羌族が塩湖で採れた岩塩を送ってきたから」
「どれくらいかかるんですか?」
「来年には食べれるよ」
寧が下を向いた。
「……来年か」
私は作業を停めて、寧の隣に並んで座った。鍋からは白い湯気が立ち上っていた。
「どうしたの? なんかあった?」
私がそう言うと寧は黙ってこちらを向いた。下を向いたまま、しばらく黙っていた。
「穂泉、私ね、子を授かりました」
「え?」
感情が湧き上がるより先に涙が溢れた。
「ずっと、郭家に仕えていたかったのですが……」
私は涙を流したまま、寧を見つめた。寧も何も話さずに私を見ていた。ふいに私は寧を抱きしめた。
「おめでとう! 嬉しい」
寧は目を開けたまま、手を下げたまま少し遠くを見ていた。
「男を強いられている穂泉には言いにくくて。郭家も離れますし」
腕の中で寧が小さく震えているのを感じた。私は、抱く腕に少しだけ力を込めた。
「そんなのいい。寧が幸せならそれでいい。寧はずっと家族」
寧の涙が肩に落ちるのが分かった。
「子供が育ったら、また、来ても良いのですか?」
「当たり前じゃない。同じ長安だもん。いつでも来て」
寧が声を出して泣き出した。私は寧の頭に手を置いて、強く抱きしめた。
「味噌、食べれますね?」
「もちろん。腐ってなければね」
ようやく二人で笑いあった。
そのとき、ふっと風が吹いた。私は目を閉じた。
誰かのマフラーの匂いがした。私は窓の外を眺めていた。風は止んだが、しんしんと大粒の雪がグラウンドに降り積もっていた。誰かが話す声がする。椅子を引く音がする。印刷したインクの匂いがする。
窓に薄く十二年前の私が映った。
もう一度瞬きをすると、雪の匂いは消え、大豆を煮た匂いが鼻の周りに漂った。
私は微笑み、小さく頷いた。コツンと寧の肩に自分の肩を寄せた。
見上げると、空は水色一色だった。
新しい年が明けた太和二年春、私は天水太守となった馬遵とともに、渭水上流の洛門を巡察していた。
西へ伸びる道は白く乾き、馬の蹄が土を蹴る音に耳を傾けながら、山の陰を感じていた。
馬遵の従者が、ふいに後ろを振り返った。
西から一騎、道を外れそうな速さでこちらへ向かっていた。馬は泡を吹き、使者の顔には土が張りついていた。
下りるより先に、声が飛んだ。
「諸葛亮、漢中より西路を取り、祁山へ至るとの報、入りました!」
私の背筋を熱い震えが駆け抜けた。馬遵ではなく、道の東を見た。西から、馬上で振り返ることもできないほどの風が吹いた。
青ざめる馬遵を横目に、私は笑顔になっていた。喉の奥が熱くなり、抑えきれない拍動がこめかみを打った。初めて武者震いを知った。
ちょうどその日、私は三十三歳になった。
― 第三部 了 ―




