第二十七話 伯道
羌族の反乱を抑え、冬を越したと思えば、西で胡族が動いた。それを抑えれば、今度は北で羌族が動いた。
北西から入る木簡は途切れず、長安。高平。朝那。烏枝。また長安。私の机の上には、木簡が崩れんばかりに積まれていた。私への辞令が、その中に紛れていた。
『雍州刺史に除す』
領の字が消えていた。私はその木簡を手に取り、後ろに放り投げた。
その日、官舎へ戻ると統は、もう眠っていた。統の部屋に入ると、寝台の脇の木剣が、去年より長くなっていた。私はそれを一度だけ持ち上げて、元の場所へ戻した。
中庭を望む堂には、いつもと変わらず、王氏が端座して茶を飲んでいた。その堂の端には、捕らえて放した羌族・胡族からの贈り物が積み重ねられていた。それを見た王氏が言ってきた。
「淮様の人徳がみえますね」
「それは定かじゃないけど、ありがたい」
私は王氏から受け取った盞を覗いた。濃緑色の熱い汁の上に、細かな白い泡が層になっていた。私は息を吹きかけ、泡の層を割り、底に沈んだ茶の澱を静かに揺らした。
翌年の春に帰ると、統の袖が短くなっていた。夏に帰ると、魚の骨を皿の端へきれいに並べていた。馬の鞍の革は年ごとに柔らかくなり、統の肩幅は年ごとに広くなった。
ある休沐の日、私は庭先で、石墨を石臼で練り潰していた。私の右手は真っ黒になっていた。
「父上、何をなされているのですか?」
統が私の手元を覗き込んで聞いてきた。声が少し低くなっていた。私は石臼に水を入れ、少し待って上澄みを布の上に広げた。
「羌族に探させていた石墨がようやく届いたからね。鉛筆というものを作っている」
それだけ言って、笑いながら統を見た。統は不思議そうに私を見続けた。私は壺から、灰汁と脂で作った軟石鹸をすくい、手に載せて泡立たせ、炭を洗い流した。
「統が朝飲んだ澄んだ茶も、この石鹸も、父が作ったのだぞ」
「本当ですか?」
「嘘をついてどうする」
私は笑いながら、手作りの鉛筆を取り、紙に字を書いて見せてから、統に手渡した。統はそれを目の前に掲げ、瞳を凝らした。
「この黒い塊は、これになる。それは試作だ」
「父上はなぜ、技術を献上なさらないのですか?」
そう聞いてくる統に私は笑って答えた。
「父はもう、これ以上要らないからね」
文字を書いた紙を折って紙飛行機を作った。庭に飛ばすと風に乗り、外へと飛んでいった。私も統もその飛行機を眺めていた。
黄初七年五月のこと。長安の官廨は、静けさだけで埋まっていた。算木の音だけが何十にも重ねられ、風が吹けば、木々の葉がこすれる音と遠くに牛と馬の鳴き声が聞こえた。
その朝、使者が部屋に駆け込んできて、私の内室の入口で大声を出した。
「曹丕様が、嘉福殿で崩御なされました!」
回廊に漏れ響く算木の音が一瞬止まったが、また、同じように鳴り出した。
机の右から木簡を取り、向かいに立つ使吏に伝えた。
「粟三百、塩五十、矢羽二束、轅木四本。減った分のみ補給せよ」
使吏が筆を走らせ、その木簡を脇へ置いた。ただそれを繰り返していた。
年が明けて、年号が太和に改められた。それでも長安は人も街も静けさで埋まっていた。
正月の官廨の回廊は、室内でも寒く、牖から雪が交じった風が入り込んでいた。私は内室で、火鉢を炊いて暖をとり、手足を鉄粉と炭粉を入れた麻袋で温めていた。
昼過ぎ、一人の青年が私を訪ねてきた。私は座したまま、下から上へと青年を眺めた。
厚い胸板から将であることは分かった。だが表情に険しさはなかった。
「涼州の郝昭と申します。郭淮雍州刺史、初めてお目にかかります」
礼儀正しく、手を合わせ礼をされた。広い肩幅に、骨ばった手。顔を見ると、筋の通った高い鼻梁に、固く結ばれた薄い唇と蓄えた髭。贅肉がなく、それでも皺のない頬は、青年の若さを表していた。
「如何なされたのですか?」
「物資を涼州に回して頂きたい」
「なぜでしょう? 南方戦線への補給で、雍州にも余裕はございません」
郝昭は、内室に座る使吏たちをさっと見渡して、小声になった。
「少し外で……外でお話します」
「……わかりました」
刺史治所を出て、西市の餅屋に向かった。灰色の雲が低く流れ、雪がちらちらと降っていた。寒さで肩をすくめて、歩きながら郝昭と話をした。
「雍州刺史と聞いて年寄りを想像しておりました」
「もう三十になりますよ」
「私よりお若く見えます。私などは二十八でまだ雑号の将軍。その若さで刺史とは」
「いえ、名ばかりです。私は将でありながら、帳を眺めているだけですから」
餅屋の奥に通されると、ふっと暖かくなった。餅と茶をふたつずつ頼み、向かい合わせに座った。
「さて、郝将軍。理由をお聞かせください」
「西平で羌族の麹英が反乱を起こし、臨羌の令と西都の長が斬られました」
「県を治める者が二人斬られた……と。大変な乱とは思います。でもそれは、涼州のことでしょう? 刺史はいかがなされた」
「張既刺史は数年前に亡くなられております」
「……なんと」
「それから刺史は空席なのです。何度も洛陽に願い出てはおります」
私は郝昭から顔を背けるように頷いた。郝昭は目線を変えずに続けた。
「それで、私の方に鎮圧の命が出たのです」
「太守たちが動かぬ……ですか?」
「その通りでございます。文帝の世になって以降、ずっと私が鎮守してまいりました」
「それはすごい」
餅と茶が席に届き、会話が途切れた。郝昭は背筋を伸ばし、一点を見つめていた。将の荒々しさは微塵も無かった。
「長安を預かる安西将軍の夏侯楙様にも陳情を訴えましたが、聞き入れてもらえず……」
私は餅に手を伸ばし、一口だけ食べた。その間も郝昭は私を見つめ続けた。つい目をそらし、茶碗を手にとった。
「事情は分かりました。やりくりして余剰を送りましょう。足りるかはわかりませんが」
郝昭は私の手を握って頭を下げた。
「ありがとうございます!」
その姿に頬が緩み熱を帯びた。だけど、郝昭は表情を緩めなかった。
それから茶を替えてもらい、互いの状況や兵法について、半刻ほど話した。
「ところで郭刺史、歳も近いし、字で呼び合いませんか? 私は伯道と申します」
「いいですね。私は穂泉と申します」
ここで、初めて郝昭は笑顔を見せた。胸の奥が、ひとつ遅れて強く打った。
店の出口で別れ、彼は涼州へ、私は刺史治所へと戻った。
ふいに身体が震えた。空を見上げると、日が差していた。風はなく、雪は止んでいた。治所へ戻る足が、いつもより軽かった。




