第二十六話 水場
曹真と張郃が江陵へ発ってから、長安の刺史治所では、北西の安定郡から来る木簡が私の案へ絶えず積み上がるようになった。
高平から一束、さらに朝那、烏枝と続いた。朝に開いた束を閉じるころには、もう次の束が案の端へ置かれていた。
戸が開くたび、使者の足についた土が敷居へこぼれた。向かいの吏が紐を解き、別の吏が封泥を温めた。その間にも、次の使者が木簡を胸に抱えて立っていた。
木簡を右から左に処理していると、一枚の木簡が目に留まった。高平からだった。
『北へ移る火が三つ。羊多し。女と子を連れる』
使吏を呼び、指示した。
「高平へ向かいます。用意をしてください」
「楊将軍には?」
「別に使者を。烏枝の南を守らせてください。谷筋の水場を先に押さえるように」
渭水を渡る橋板は昼の熱を持っていた。西へ向かう道の両脇では、麦の穂がまだ低く、風が吹くたび一斉に傾いた。高平へ近づくにつれ、黄土の崖と低い灌木ばかりが続いた。
高平城へ着いた時、太陽はまだ高かった。黄土を突き固めた城壁に、乾いた風が細い筋を立てていた。門は厚い木板で、その内側には官廨と倉が低く並び、羊や馬を寄せる空き地がまとまっていた。
そこには、武器を解かれた羌族の男たちが土の上へ膝をついていた。後ろでは、女が子を抱いたまま一か所に寄せられ、羊は縄でまとめてつながれ、鍋や毛皮の袋が足もとへ戻されていた。
小さい子は母親の襟を握ったまま黙っていて、年寄りは風を避けるように背を丸めて座っていた。その外側を、鎧を着た魏兵たちが取り囲んでいた。
「隊長、ここに出よ」
私は馬に乗ったまま声を上げた。がたいの良い男が走ってきた。
「はっ」
「男女で分けず、家ごとに整列させてください」
隊長が一瞬だけ目を上げ、それから兵へ声を飛ばした。腕をつかんで引こうとする兵がいたので、私はそれを止めた。
「引っ張るな。自分で歩かせよ」
私はひとりの兵から槍を借り、土の上へ線を引いた。家と家の間へ一本ずつ、順に引いた。整列した家ごとに、順に訊いた。
「名は何という。どこで暮らしている?」
男が、乾いた喉で答えた。
「阿骨。北の沢だ」
「これで全員か?」
男が黙った。私は荷車の脇を見た。小さな履物が二足、荷の陰に残っていた。
「残している家族はいるのだな?」
横にいた女の指が、裾を強く握った。
「……まだ二人います」
その答えを聞いて、隊長が走り出ようとした。
「行くな! 放っておけ」
その声に家族はびくっとし、隊の長は走りかけた足を止めた。足もとで小さなつむじ風が起こり、土埃を白く巻いた。
次の家族へ向いた。女と老婆の二人だけだった。
「家長が討たれたのか?」
女が、下を向いたまま頷いた。
「……そうか」
私はその家の老婆の脛を見た。布の上からでも右足の腫れが分かった。二人を人数の少ない家と同じ火のそばへ寄せた。
「お前たちはこれから、同じ鍋を使え」
こうして、氏名、居所、親族関係、男女の数、年齢を、蝋板に記録した。そばへ来た兵が小声で聞いた。
「郭将軍、何をなされているのですか?」
「彼らについて記録している。二度目は無い。次は容赦なく斬る」
捕虜に聞こえるように、わざと大きな声で言った。
すべてが終わるころには、空き地を照らしているのは焚き火の灯りと月明かりだけになっていた。
翌朝、兵に羊を返させ、毛皮も返させた。
「よし、彼らを放せ」
「将軍、良いのですか?」
「良い」
高平城の門が開き、そこから羌族がぞろぞろと列をなして出ていった。兵に粟と塩を運ばせ、門前で帰す者たちに少しずつ持たせた。
私は門の前で、馬上からその流れを眺めていた。ふと、ひとりの兄妹が私に言った。
「助けてくれてありがとうございます」
私は馬から降りず、彼らを見下ろしながら言った。
「助けたわけではない。命を無駄にするな」
兄の肩が落ちた。妹は兄の顔を見てから、遅れて頭を下げた。二人は走って、先を行く列へ追いついていった。
そのまま、羌族が陣を敷いたと報告があった烏枝の山間へと向かった。高平を出ると、道はすぐに細くなり、黄土の斜面と灌木にはさまれて南へ折れた。馬の蹄が乾いた土を砕く音を聞きながら、私は井のある谷筋だけを見ていた。
着いたころにはすでに日は落ちていて、山間には、羌族の陣と思われる火が散らばっていた。
――水を断てば、山の兵は長くもたない。
楊秋の陣幕に入り、状況を聞いた。羌族の兵の位置をまとめた蝋板を見ながら、楊秋にたずねた。
「状況は把握しました。それで、谷を下った先の水場は?」
「はっ。兵に木柵を組ませ、縄を張ってあります」
「では、付いてきてください」
「今からでございますか?」
「はい。今からです」
私は楊秋を連れ、水場の近くに身を潜めた。夜が薄くなるころ、水場の泥だけが黒く見えた。水桶を伏せ、縄を地面へ寝かせた。兵の足もとで砂が鳴った。遠くの丘の向こうでは移動する火が四つ見えた。
そのうちの一つが水場へ寄った。馬の腹が月を受けて白く光った。前列が縄に足を取られた。槍が地面を打ち、乾いた音が一つ、二つと続いた。私はその奥を見た。荷車が止まり、女が子を抱いたまま伏せていた。
楊秋の兵が回り込んだ。
「殺すな。生きて捕まえよ」
私の声が先に出た。兵たちが一斉に駆けた。その間に、残りの火はすべて見えなくなった。
その女が引いていた荷車の上を見た。木椀が四つ、乳酪の袋が二つ、毛皮は三枚。
「聞け。こちらが見えているのだろう」
私は声を張った。
「このまま帰るならば、この子らに水を与えて戻す。山に向かうのであれば斬る」
返答は無かった。だが、草が動く音がした。
私は、女に桶の水を渡した。女は、まず子に飲ませた。私はその女の前に膝をついて、その様子を見た。
「戻って暮らしなさい。攻めてくるなら、あなたたちごと斬らねばならぬ」
それだけ言って立ち上がった。
女と子を戻してから、楊秋へ向き直った。
「これを繰り返してください。どれだけ散っていても、必ず水場に現れます。捕まえても殺さずに帰してください」
「しかしそれでは……」
「水が無ければ生きていけません。いずれ引きます」
楊秋はしばらく水場を見ていたが、やがて短くうなずいた。




