第二十五話 秋の月
寧の婚礼の日、庭の土は朝露を含んで暗く、井戸の縄の先から水がひとしずく落ちた。頬をかすめる風には、もう秋の乾きが混じっていた。
長安の道では、轍に溜まった水が陽の光を返していた。寧の牛車は先を行き、その後ろを私と王氏の乗る牛車が追った。私の口元には笑みが残っていたが、視線は膝の上へ落ちていた。
相手の家は、城内でも古くから人の住む一画にあった。黒く艶のある門をくぐると、私は男たちのいる外側へ、王氏は女たちの側へ通された。庭にはすでに親族たちが揃っていた。
私は誰とも顔を合わさず話もせず、ただ、香が立てる細く白い煙が朝の気に押されて横へ流れるのを眺めていた。
やがて縁を取り持つ媒人が進み出て、若い男が堂に入った。座の前で一度足を止めた。袖を正し、深く息を入れた。
そのあとで、寧が導かれて入ってきた。髪はきちんと結い上げられ、襟は高く合わせられていた。細い後れ毛が耳の下へ綺麗に落ちていた。袖はまだ新しい布の堅さを残していた。
その姿を見たとき、ほんのわずか、息が止まった。
媒人の口上が始まり、家の名と縁の起こりが告げられた。声に促されて二人が進み、まず上座の長者へ向かって礼がなされた。寧が頭を下げると、重い袖が遅れて落ちた。
私は、映画を観ているような感覚で、その儀を見ていた。
ついで二人は向き直り、前に置かれた低い台から杯を取った。男が先に受け、寧がそれに続いた。杯が戻されると、奥で誰かがようやく息を吐いた。その音で、自分の手が袖の中で固く握られていたことに気づいた。
奥に控えていた年長の女が前へ出て、寧の袖の端を取り、静かに奥を示した。寧は振り返らぬまま、敷物の端を越えて奥へ入った。垂れの向こうで人の影がひとつ動き、箱の置かれる音がした。
私はゆっくりと目を閉じた。そのあと、重い布の擦れる音が遅れて聞こえた。
王氏が簾の向こうから出てきた。相手方の母の前で立ち止まると、袖の端を指先でそろえ、静かに膝を折った。
「娘御は、たしかにお預かりいたしました」
そう言って、先方も深く礼をした。その言葉に王氏は静かに首を下げ、短く返した。
「どうか、よろしくお願いいたします」
門までのあいだ、相手方の挨拶は続いた。返す言葉のほとんどを王氏が受け、私は石畳ばかり見ていた。
来た時と同じように、私と王氏は並んで門を出た。背中の向こう、家の奥ではまだ人の気配が続いていた。
牛車へ戻る前に、王氏が一度だけ振り返った。
「一人いなくなると、家の音が減りますね」
私は門の内を見たまま答えた。
「うちで働くから、三日後には会えるけどね」
私は笑顔を作ったつもりだった。王氏は返事をせず、口元をわずかに緩めた。
空を見上げると、太陽が目に入った。思わず手で覆った。じわりと襦の下が汗ばみ、そこへ通った風が薄く冷えを残した。
寧が嫁いで三日後、約束どおり顔を見せた。
その翌朝には、長安の刺史治所で、新しい木簡が案の端からこぼれていた。
年を跨いでも、案の上に積まれる帳は、日ごと厚くなっていった。朝、席へつけば必ず、案の上に新しい木簡が三つ、重ねてあった。紐の色が違った。
帳の上では、布、鉄、縄、油、車材の行先札がどれも洛陽を向いていた。倉の鍵を持つ使吏は、一日に何度も呼ばれた。
ある朝、布告の木簡が届いていた。そこには『五銖銭を罷め、穀物と織物をもって売買せよ』と書かれていた。
「……スーパーインフレか」
自分の口から出た言葉に、思わず小さく笑った。まさか、この時代で使うとは思わなかった。
街へ買い物に出ても、銭の話が通らず、値段より中身の話が増えていた。
「米で払うのか、絹で払うのか」
「その穀は新しいか、湿っていないか」
棚に並ぶ物が減っていき、値が定まらず、みんな少しずつ口数が減っていった。
それだけではなく、私は、征羌護軍として曹真の指揮の下で、北西の安定方面の対応に追われていた。
蝋板に地図を描き、羌胡の群れが動いた筋をそこへ重ねていた。案の前には、私の言葉を待つ使者が黙って立っていた。
「張郃将軍、楊秋将軍は、今どこに?」
「張将軍は、安定郡の高平に軍行中で、途中の烏枝に駐屯しております」
一瞬だけ間をおき、使吏に命を伝えた。
「張郃には、高平に入り次第、羌胡を遊撃するように」
使吏の筆先が木簡を擦った。
「楊秋へ。烏枝から朝那を経由し、羌胡を高平に寄せるよう進軍せよ」
書き上がった木簡を受け取り、封をした。使者は両手でそれを受け取った。私は身を引いた。案の上には、兵糧帳が開いたままだった。ため息が出た。
初めは洛陽の木簡ばかりだったはずが、秋が深くなるにつれ、その間に許昌、さらに南の木簡まで混じり始めていた。
月に雲がかかったある夜、私は中庭の見える堂で、蝋板を眺めていた。王氏はしずかにお茶を飲んでいた。
「寧が出てから、騒々しくなりましたね」
王氏がふいに話しかけてきた。私は蝋板から目を離し、月を見上げた。
「一年。いつの間にか時間が過ぎてた」
雲が流れ、月の光が明るく庭木を照らし、堂の中もふと明るくなった。
「月の明かりと同じように、私たちも雲と風に身を任せるしかないのでしょうか?」
「……そうなのかもね」
私はまた蝋板に視線を戻した。月にまた雲がかかり、辺りがそっと暗くなった。
南方の戦は収まる気配がないままに、晩秋を迎えた。その日、張郃が刺史治所にやってきた。
「穂泉殿、元気であったか?」
「おお、儁乂どの、いかがいたした。盧水胡と東羌は、しばらくおとなしいでしょう?」
「おぬしの作戦が功をなしたのでな」
張郃は案を挟んで、その場へ胡坐をかいた。
「挨拶に来た。許の宮廷へ呼び戻されてな」
「はい」
「子丹と江陵へ向かわねばならん」
子丹。曹真の字だった。
「……」
私は言葉なく天井を仰ぎ見た。張郃は膝に手を置いたまま、少しだけ目を伏せた。
「定軍山の折に申したこと、違える。すまん」
「頭をあげてください。儁乂どのは、魏にとって替えのいない武将でございます」
「かたじけない」
「いえ。十分な時間を頂きました。どうぞご無事に」
「おぬしもな」
張郃はそれだけ言うと大きな体で床を鳴らしながら室を出ていった。一つの報告を示す木簡を手に取った。
『呉の孫権が、年号を黄武と定めた』
――これで三国鼎立……
窓の外では、黄色くなった木々が、強い風に何度も裏返っていた。雨戸が鳴り、その隙間から入った冷たい空気が、案の端に置いた軽い札をかすかに動かした。
目の前には、いつもと同じ木簡の山が残っていた。




