第二十四話 七夕の灯り
青葉を揺らす風も湿り気を帯び、朝から肌に衣が張り付いた。その日は、真っすぐに官廨へ向かうのをやめ、崩れかけた前漢以来の古壁を眺めながら、遠い回り道を選んだ。
官廨に着くと、ざわめきが大きく、人々が足早に行き交っていた。ところどころで、役人が集まり立ち話をしていた。
それを横目に自分の席に座った。未処理の木簡の束の上に、新しい木簡が一つ置かれていた。立ったまま手に取った。
『劉備が帝位に即く。年号を章武と定める。』
私はそれを案の端に裏返しに置いた。席に座り、昨日の帳の続きを始めた。
それから、戦況と人事異動を報告する木簡が日に日に増えていった。私はそれを見ることもなく案の端に重ねていった。
ある夜、王氏から寧に提案があった。
「七夕の乞巧の席を設けませんか?」
「なに、それ?」
寧が答えるより私が聞いた。
「寧を見定めてもらう宴です。寧は気立てが良いから、きっと縁談が見つかるでしょう」
「へぇ。そんなのがあるんだ。いいんじゃない?」
「叔母の家が街の端にございます。そこで小宴を開きましょう」
寧がお茶の碗を置いて、言った。
「でも、私、恥ずかしいです。男たちに見られるんでしょう?」
「たしかに恥ずかしいね、それは」
「でも、穂泉も一緒ならお願いしたいです」
「は?」
驚いたけど、少し心が躍った。王氏がにこやかに言ってきた。
「それも良いのではないでしょうか? もう一日だけ女に戻っても、叔母たちには分からないでしょう」
頬が緩んだ。緩んでしまった。
七夕の日。王氏の叔母の家は、城壁の内でも古い造りだった。門をくぐると、石を敷いた細い道の先に小さな内庭があり、そこへ七夕の灯がいくつも吊られていた。
灯は風に吹かれて細く揺れ、卓の上の針、糸巻き、色糸を入れた浅い籠を、赤く照らした。
私たちだけではなく、何人も女がいた。みな内庭に通されていた。
若い娘は新しい襦の袖を気にしながら席につき、年かさの女たちは、目を動かしながら、その少し後ろで茶を飲んでいた。
庭の向こう、竹の簾の奥には、灯に切られた男たちの影があった。
寧は私の半歩前を歩いていた。若草の襦に、生成りの裙。私は寧の隣に座り、卓の上の針を一本取った。
「これとこれを縫い合わせればいいのね?」
目の前に置かれた二色の布を手に取り針を刺した。布を織り込みながら針を通し、ある程度布が重なったら、一気に糸を通した。
「泉、お上手ですね」
「学校でやってるから」
「学校?」
「そう。私が育った場所では、みんなで教わるの。文字も算も縫い物も」
「え? それはどこですか?」
私は少しだけ目を閉じた。
「ここからずっとずっと東の海の向こう。内緒ね」
寧は手を停め、微笑んで頷いた。
「はい。泉の全てが内緒です」
それからふたりで無言で布を縫い続けた。
庭の端で、王氏の叔母が茶碗を置いた。その視線が寧の手元で止まった。すぐあとで、簾の向こうでも、誰かがわずかに身じろぎした。
私はそこで初めて、ちらりと簾の方を見た。濃い色の袍を着た若い男が一人、他より少し前へ出ていた。
顔は簾に切られて半分しか見えない。それでも、見ている先が、私の手だということだけは分かった。
やがて女たちの布が順に見られた。王氏の叔母は寧の前で足を止め、布を持ち上げ、灯へかざした。縫い目の細さを見ているのか、布より向こうを見ているのか、分からない目だった。
「良い手だね」
それだけ言って、叔母は簾の向こうへ目を流した。向こうでは、誰かが茶碗を置いた。
帰りの牛車で、寧は膝の上に布をのせたまま黙っていた。寧の頬は、少し赤かった。
その後日、夕膳のあとも、まだ日は落ちきっていなかった。庭の見える部屋で、寧とふたりで茶を飲んでいると、王氏が入ってきた。
「寧、少し話があります」
寧は小さく息を呑み、一度だけ衣の裾を直して、膝を揃えた。
王氏は寧の前に座った。すぐには切り出さなかった。茶碗を置いてから、静かに言った。
「先夜の乞巧の席のことで、叔母から話がありました。寧を見初めた家があるそうです」
細かく動いていた寧の指が止まり、少しだけ顔を伏せた。
「……わたしを、ですか」
「ええ。長安の家だそうです。家つきも悪くない。息子も、浮ついた方ではないと」
寧は答えなかった。膝の上の手が、そっと重なった。
「返事は、まだしておりません」
その一言で、寧の肩がわずかに下がった。
「寧が嫌と言うなら、このままお断りします」
寧は顔を上げた。目がほんの少し見開いていた。
「嫌……では、ございません」
声が少し震えていた。
「こういう話を、いただけるとは思っておりませんでした」
王氏は黙って聞いていた。
「わたしなどに、ほんとうに……」
「先夜、寧を見た方が、そうは思わなかったのでしょう」
寧は強く瞬きをした。目に薄く水が浮いたが、拭わなかった。
「……ありがとうございます」
そう言って、手を揃えて深く頭を下げた。
私は茶碗にも手を伸ばせず、そのやり取りを見ていた。王氏はしばらく寧を見ていたが、やがてこちらへ顔を向けた。
「淮様」
「はい」
「淮様にも縁談の話がございます」
「……え?」
「いかがいたしましょう?」
胸が跳ねて、顔が熱を持った。みるみる耳が熱くなった。
「私は淮様に女の幸せを頂きました。淮様がお望みなら、もう私は十分でございます。私と成は統を連れて、どこへなりと退きます」
帯びた熱が一気に冷えた。茶碗へ手を伸ばした。指が震えて、碗の縁に軽く触れただけで止まった。
王氏は額を床につけた。
「どうぞ、どうぞ淮様はご自身の幸せのために生きてください」
戸の外で風が立ち、柳が一斉に鳴った。
私は手で顔の傷を撫でた。手にわずかな皮膚の膨らみを感じた。
「……いえ、断ってください」
王氏が手を床につけたまま顔だけ見上げた。目が揺れていた。
「……でも」
「私は、郭家の次男、郭淮。約束したでしょ? 共に生きると」
王氏の目から大粒の涙が流れた。
「……はい」
それだけ言って、王氏は深く頭を下げた。
外はもう暗くなり、月明かりが庭の柳を照らしていた。葉の影が揺れるたび、床に落ちた光も細く動いた。




