第二十三話 上巳の水辺
牛車は、地面の凹凸を拾いながらゆっくり進んでいた。私は、裾を正して座っていた。垂れ布から洩れこむ光が膝に届くたびに、襦裙の青色が目に入った。
「着きました」
成が垂れ布を上げた。光が一斉に牛車の中に入り、視界が一瞬真っ白になった。
足元を見ながら牛車を降りて、頭を上げると、渭水の岸は、薄紅、浅葱、若草、淡紫、様々な春の色が流れていた。岸の柳はまだ細く、風が通るたび、若い枝先がいっせいに傾いた。
川沿いには、いくつもの席が並んでいた。白い敷物の上に杯が並び、壺の口に桃の枝が添えられ、切った果物の皿が日の光を返していた。
水際では、裾をたくし上げた娘たちが白い手を浅瀬へ差し入れ、払った水が日の下で細かく砕けていた。その後ろを、春色の裙が絶えず行き交っていた。
桃の枝を持つ娘、蘭草を腰へ挿した女、酒壺を抱えた男、手を引かれる子ども。どこかで杯が触れ、どこかで子どもたちが走り、どこかで女たちが一斉に笑う。そのたび、岸の空気が揺れた。
道の脇には小さな商いがぎっしり並んでいた。薄い酒の壺、桃の枝を山にした籠、蘭草を結んだ細い紐、香を吊るした竿。麦の焼ける匂い、甘い湯気、草の青い匂い。
私は思わず寧の腕を抱き、早歩きになった。寧は一瞬だけ戸惑ったが、笑顔で私に歩幅を合わせた。
ふと、昔歩いた中華街の匂いがした。
「寧、あっち。すごくいい匂いがする」
私は寧の腕を抱えたまま、匂いの先に向かった。
蒸籠の蓋が持ち上がるたび、白い湯気がふくらみ、その奥から丸い蒸し餅がのぞいた。鉄板の上では、薄く伸ばした餅が油を引かれて照り、端から小さく泡を立てていた。浅い鍋の羹はゆっくり揺れ、柄杓が縁に当たるたび、軽い音が鳴った。
「これは、美味しそうですね。何か食べましょう」
寧は笑顔で私に言った。私は返事も忘れ、笑みを浮かべたまま、湯気の立つ店先へ目を移していた。その私を見た寧は、そっと私に布を手渡してきた。
「泉、涙を拭いてください」
私は自分の頬に手を当てた。濡れていた。白粉が落ちないように、布で目尻を押さえて涙を拭いた。
焼き餅の男は忙しそうに手を動かしていたが、成が銭を置くと、焼きたてを二枚、葉にのせて私と寧に渡してくれた。表は香ばしく、指に持つとまだ少し熱かった。鼻を近づけると、焼けた粉と油の匂いがした。
「……おいしそう」
小さくかじった。表面は硬く、中は柔らかかった。塩気より、麦の甘さが先に来た。思わず目が細くなった。
「おいしい」
「よかったですね」
寧はそう言って、自分の分を少しずつ食べた。私はもう一口齧った。
顔を上げると、露店はまだ先に続いていた。串に刺した炙り肉が火の上で脂を落とし、その横で小さな菓子が盆に山を作っていた。
売り手が籠の端へひょいと挿しただけの桃の枝が、湯気の中で小さく揺れていた。
「お好きなものを買って、座って食べましょう」
成がそう言って、先に進もうとした。私は手に持った焼き餅に目を取られ、半歩遅れた。その拍子に、後ろから来た誰かの肩がぶつかった。
「……っ」
体がよろけた。焼き餅を落としそうになって、空いた手が宙をつかんだ。その前に、横から腕を取られた。
肘の少し上を支えられたまま、一瞬、動けなかった。振り向くと、若い男が立っていた。目鼻立ちは整い、濃い色の袍をまとっていた。その襟元はきちんと合わされ、腰の革帯に小さな刀を差していた。従者らしい男が半歩後ろにいた。
「大丈夫ですか?」
「あ……」
声が喉の手前でつかえた。私はしばらく、その顔から目を離せなかった。少しして、男は優しく手を離した。
「つい、腕を取ってしまった。痛くはないか?」
少し太く張りのある声だった。
「……はい。大丈夫です。ありがとうございます」
私は手の中の焼き餅を見て言った。
「それなら良かった。人が多いゆえ、前を見よ」
男はそれだけ言って、従者を連れて、人の流れへ戻っていった。私は、その袍の裾が人の間に消えるまで眺めていた。
「泉?」
寧に声を掛けられ、我に返った。
「……はい?」
私は返事をしながらも、腕には男の手の感触が残っていた。
「良かったですね?」
「なにが?」
そう返事する私を、寧も成も何も言わず笑顔で見ていた。
成が敷物を広げ、餅や串、菓子と少しのお酒を並べた。私はそこに寧と並んで座った。成はそこから離れ、私たちを見守れる位置に立った。
「成も座りましょう」
成は首を振った。
「今日だけ主従はありません。それに私たちは家族です」
それでも成は首を振った。手は前で重ねたまま、ほどかれなかった。
「泉様、どうぞ今日はご自分のためだけにお時間をお使いください」
「……ありがとう」
私は川を向き、串を手に取った。
それから食べながら飲みながら、寧といろいろな話をした。小さい頃のこと、郭家でのこと、これからのこと。ふいに身体が動いた。
「あ、写真撮るの忘れてた。スマホ……」
無意識に腰のあたりへ手をやり、スマホを探しだした。
「泉、何をしているのですか?」
「……あ、なんでもない」
手を止めて、姿勢を正した。
「で、寧は、結婚どうするの?」
明るかった寧の表情が曇り、視線が足元へ落ちた。
「私は生まれてすぐ郭家に売られました。おやじさまから、そういう話は一度も……」
「……え、あ、ごめん」
「いえ。私はこうして泉に仕えられて、幸せです。こちらの郭家は、自由で笑顔が絶えず、ずっと暮らしたいです」
柳が風に吹かれて、ざざっと鳴った。しばらくその音だけを聞いていた。
「寧、今いくつ?」
「十九になりました」
「十一歳から……そっか。でも、まだ間に合う。寧も、結婚しようよ」
寧は自分の足元を見て、しばらく黙り込んだ。
「……いえ。お気持ちだけで、心は一杯です。ありがとうございます」
私は杯の酒を一息に飲み干した。
「だめ! あきらめちゃだめ!」
私の声に、寧はこちらを振り向きながら、後ろにたじろいだ。私は寧の手に自分の手を乗せた。
「私は寧に……寧の人生を歩んで欲しい」
寧は目を開いて私を見続けていた。
「寧はもう、本家を出て、私に仕えている。決めるのは親父様じゃない。私だ。私が許す」
寧は下を向き小さく頷いた。
「……はい。ありがとうございます」
柳の緑に、徳利に挿した桃の花が映えていた。西に傾いた明かりが、寧の横顔を照らした。目から落ちた涙が、その明かりを小さく跳ね返していた。




