第二十二話 女に戻る日
年が明けて一ヶ月が過ぎても、長安の城壁の影には、まだ解け残りの雪が薄く貼りついていた。日の当たる道だけが早くぬかるんで、牛車の轍に黒い水が溜まった。
室の中では、油皿の灯は低く、茶の湯気が卓の上で薄く揺れていた。外は暗く、夜風が時おり強く吹き、木の枝がかすかに鳴った。
寧は膝の上で針を動かしていた。白い布の端をつまみ、細い糸を引くたび、指先だけが灯に出て、また影へと戻った。王氏は卓の向こうで盞を両手に包み、まだ口をつけずにいた。
王氏が静かに口を開いた。
「そろそろ、上巳ですね」
「そう言えば、上巳を三月三日にするって令が出てた。上巳って何?」
私がたずねると、寧が針の手を止めて会話に入ってきた。
「あれ、知らないんですね。川辺で祓いをする日ですよ。人が多くて、女も出やすい日なんです。市からも餅売りや香売りが出るって聞きます」
「露店? 楽しそう!」
心臓の奥がトクンと跳ねて、口元が、自分でもわかるくらい上に引っ張られた。
「私も行ったことはありませんけど……」
そう言って寧は布へ針を戻した。
「じゃあ、行こう! みんなで。統も成も連れて」
「そうですね……」
王氏はそう言って黙った。しばらく、寧が針を刺す小さな音だけが響き、それから茶をひと口飲んだ。
「……淮様。その日だけ、女に戻ってみてはいかがでしょうか」
「え!? ちょっ……ええっ……」
声が裏返り、残りの息が変な音を立てて漏れた。王氏が私の方に膝を向けて座り直し、私を見ながら言った。
「私はとても幸せです。淮様のおかげでございます」
私は茶をひと口飲んだ。冷めてるはずが、喉の奥に熱を感じた。
「女は女の気持ちが分かるものです。寧と二人でいってらっしゃいませ。成を供につけましょう」
「……でも、統は? 置いてきぼりはかわいそう」
「私と統には来年も再来年もあります。今年はふたりでお留守番です」
私は自分の盞へ目を落とした。頬が上がりそうになるのを必死にこらえた。雨戸の外で、夜の風がまた木を撫でた。
「長安の川辺は、人が多そうですね」
寧は針を止めて、今度は私を見て笑った。王氏もそれを見て、口元だけで笑って言った。
「それでは、決まりですね」
私の盞の中で、薄い茶の表に、灯がゆっくり揺れていた。
三月三日の早朝、廊から庭を眺めていた。朝の光が、廊の端から白く差し込んでいた。まだ若い柳の枝が、壁の白へ細く影を落とした。
統が木剣を振っていた。その後ろに、少し離れて、成が腕を組んだまま見ていた。
「さぁ、今のうちに支度をしましょう」
寧が私の裾を引いて、奥の房へと連れていった。
台の上には、楕円形の青銅鏡が置かれ、その前に、顔を白く整える脂粉、唇と頬に差す紅、眉を引く黛が並べられていた。
「わ……すご……」
膝の上で指先がそわそわと踊りだした。
「そこにお座りください」
寧が私を座らせて、手に米粉をつけた綿を持った。
「ちょっと待って」
私は鏡の中の自分をのぞいた。青銅の黄色味が載っているものの、女の私の顔だった。目尻にできた皺を少しだけ手でなぞった。
「……自分でやりたい」
私がそう言うと、寧は一瞬だけ目を見開いた後、その目を細くして笑った。
「いいですよ。その間に、衣の方を用意しておきます」
寧は房を出ていった。
米粉を少し摘まんで、ぱらぱらと落とした。手のひらに塗りつけて、その手を振った。米粉はすぐに剥がれ落ちた。
「……んー」
近くにあった薬箱を開けて、獣脂の猪膏を取り出し、匂いを嗅いだ。
「うわっ」
強烈な獣臭にたじろいだ。今度は道具箱から灯り用の油を出して、匂いを嗅いだ。
「……これは少し鼻につくなぁ」
油を皿に少し入れて、並べられた香料の匂いを一つ一つ嗅いだ。そのうちのいくつかを油に混ぜて、指先でゆっくりと円を描くように混ぜ合わせた。
それを火にかざして温めた。手に塗ると程よく伸びた。その匂いを嗅いだ。
その油を顔に載せて、絹の布で薄く伸ばした。小さく残った無数の傷跡を白い鉛粉でなぞり、綿で押さえた。道具箱から新しい筆を出して、米粉を顔全体にまぶした。
米粉は顔から落ちなかった。笑みがこぼれた。
黛で眉を描いて、紅を小指で唇に載せた。
鏡を見た。笑顔を抑えられない。
そこに寧が戻ってきた。浅葱色の襦に、くすんだ紅色の模様が入った裙を合わせていた。
「穂泉、ここに置いておきますね。王氏様が見立ててくだ……えっ?」
私が寧の方を振り向くと、寧が固まった。
「……お綺麗です」
言葉を返そうとして、バッと視線を膝の上に落とした。口角がだらしなく持ち上がった。
寧の手を借りながら、初めて襦裙を着た。淡い青の襦に、薄蘇芳の模様が入った裙。襟元には、灰みのある紫と生成りの白が重なっていた。
「私、大きいから変じゃない?」
寧の頭に置いた手をそのまま自分の方へ戻すと、私の額に当たった。
「私が小さいだけです。さぁ、髪を結いますので、座ってください」
そう言ってまた、鏡台の前に座らされた。鏡越しに寧の髪を見た。左右で髪を結い上げ、丸く二つにまとめていた。私の目線に気づいた寧が笑いながら言ってきた。
「せっかくだし、穂泉も一緒に、少しだけ若作りしましょう」
寧は手際よく私の髪を後ろでまとめ、こめかみの毛を少し落として、簪で留めた。
「王氏様を呼んできます」
寧は小走りで王氏を呼びにいった。私は顔の向きを変えながら、何度も鏡で自分の顔を見ていた。
「あら。本当にお綺麗です、淮様」
王氏が房に入るなり言ってきた。
「本当にありがとう」
私は膝を王氏に向けて、頭を下げた。王氏は何も言わず小さく首を振った。
「女の名前も必要ですね。穂泉なら『泉』かな?」
寧が言ってきた。指先が、無意識に手近にあった器の縁をなぞっていた。
「行きましょう、泉」
寧が私の手を引いて立たせてきた。
「統は私に任せて。寧、泉、二人とも楽しんできてください」
王氏はそう言って、私の頭に柔らかく布を被せた。
裏口にはもう、成が牛車を引いて待っていた。踏み固められた道が春の日差しを白く反射させていた。門の外を、上巳へ向かう女たちの裙の裾が、浅い紅や青をこぼしながら、ひとつ、またひとつと過ぎていく。
私は被り布の端をつまんだまま、牛車の前で一度だけ足を止めた。
先に乗り込んだ寧が、こちらへ手を差し出していた。私はその手を取って、車へ上がった。




