↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/36

第二十一話 徳のある世

冬の長安を発って三日、道は渭水に沿って東へ伸びていた。川面は鈍い茶色で、朝ごと岸に薄い氷を残した。


馬の鼻息は白く、手綱の金具は触れるたび指先の熱を奪った。荷駄の車輪が乾いた地を鳴らし、その音が、低い空の下を長くついてきた。


洛陽へ向かう潼関へ近づくにつれ、道は目に見えて細くなり、風が強くなった。荷車の覆い布が何度も跳ね、従者が紐を締め直していた。


関に近づくと、風を避けた荷馬車と兵が、塀に沿って列を成していた。


私は馬上で一度だけ腰を浮かせた。腿の付け根まで、鈍いだるさが降りていた。


潼関(どうかん)を抜けたのは、日が西へ傾きはじめたころだった。関中の内に溜まっていた冷気が、そこでほどけるように流れた。


鞍に体重をかけた瞬間、腹の底の力が抜けた。内側から重たい粘り気が滑り落ちた。


――来た。


馬をすぐには止めなかった。私は瞼に力を入れ、手綱を短く持ち直し、ゆっくり進んだ。後ろの牛車が追いついた辺りで、ようやく成を振り返った。


「少し休ませてください。牛車に入ります」


成はすぐ頭を下げ、従者たちへ声を飛ばした。私が牛車の中に入ると、成が入口の垂れ幕の前に立った。


冷えた指を下穿きの内へ差し入れた。湿りがあった。指先へぬるさが移った。短く息を吐き、灰を包んだ綿を押し当て、油紙を重ねた。下穿きの紐を強めに結んだ。


垂れ布の向こうにいる成に聞いた。


「洛陽まであとどれくらいですか? 慶賀は何日後ですか?」


成はこちらを向かず、そのまま答えた。


「洛陽まで馬で三日。慶賀は四日後です」


――二日休んで急いで二日。ゆっくり進んで四日。


今夜の宿までの里数、その次に馬を替える継站(けいたん)、役人が泊まる候舍(こうしゃ)、さらに先の傳舍(でんしゃ)――それらを頭の中で並べた。


内腿を拭いた濡れ布を見た。薄暗い中で、黒ぐろとしていた。


垂れ布から顔を出して、成に伝えた。


「今夜は近い宿を使いましょう。馬も牛も休ませてください」


成は何も聞かず、ただ深くうなずいた。


その夜、私は湯を二度替えさせ、火のそばで脚を折ったまま、出てくる血の量を見ていた。


翌朝、宿の室の前には、成が戸越しに立っていた。


「穂泉様、お体の調子はいかがでしょうか?」


「良くはありません」


「では、馬ではなく牛車にお乗りください。それでも急がせれば、間に合うかもしれません」


「いえ、今日は休みましょう」


「それでは間に――」


「良いのです」


私は成の言葉を遮った。立ち上がり、戸を開け、成に近づき小声で言った。


「良いのです、よく知らぬ男の祝いなど。……きっと、大丈夫です」


そう言って笑った。成は顔を歪めながら、笑顔を返してきた。


洛陽へ入ったのは四日後だった。もう陽が西へ傾いていた。城門の朱はまだ若く、扉の金具は夕日の中で硬く光っていた。


道の脇には、外したばかりの縄や板が壁へ立てかけられ、塗りたての札は、風を受けるたび木の匂いを返した。


宮城(きゅうぐう)へ入ると、香の匂いが漂った。その下に、乾ききっていない(うるし)の匂いがほんのり混じった。


広間へ近づくと、戸の向こうから(しょう)と鼓が重なって聞こえた。酒の匂いが廊まで流れ、運び込まれる肴の湯気が灯に白く浮いた。私は襟を正しながら、ゆっくり歩いた。


中へ入れば灯で明るく、漆の膳と杯が横へ長く並んでいた。新しい幕の折り目はまだ硬く、酒を運ぶ小吏は、その広さに歩幅を合わせきれていなかった。


群臣の袖は色を重ね、杯が動くたび金具が鳴った。上座の曹丕は、白く乾いた顔で、すでに何人かの言葉を受けていた。末席へ出て膝をついた。


「……遅いな」


顔を上げると、曹丕の指はまだ杯の縁にかかっていた。目は動かなかった。


「郭淮、ただいま参りました」


「見れば分かる」


楽以外の音が止まった。袖の擦れる音が、両耳で聞こえた。


やがて侍臣(じしん)が一人寄り、私は次の間へ引かれた。


隔ての戸が閉まると、楽の音は遠のいた。室内には炭の熱が残り、木簡を広げた几案(きあん)の木肌が灯に白く返っていた。


曹丕は高座(こうざ)の脇に立って、私を見ていた。私は額を床へつけた。


「かつて、夏朝王が諸侯を塗山(とざ)に集めたとき、防風氏(ふうぼうし)は遅参して誅された」


声が反響した。私は額をつけたまま、続く言葉を待った。


「この天下まとまっての慶事に遅参とは。その理由を申せ」


私は一度だけ息を吸った。


「ただ道を見ておりました」


「何だと?」


火鉢の中で炭がひとつ、灰の下で崩れた。


「行き交う人も馬も牛も、荷物でさえも、来たる太平を望む顔をしておりました」


「……ほう」


曹丕の声の調子が、わずかに変わった。


「これも陛下の人徳と仁義のなせることと存じます」


「はっは、()びるか。余には通用せぬ」


衣の裾がわずかに鳴り、曹丕が高座を降りた。目の前に曹丕の足と頭の影が映っていた。私は頭を上げなかった。


「聞くところでは、五帝の時代はまず徳によって民を導きました。夏の王朝では、政治が衰えた後に、徳ではなく刑罰で人を治めました」


「おぬし、余に講釈するか?」


「徳ある陛下の治める世では、防風氏のような誅罰(ちゅうばつ)を受けることはないでしょう。それを確かめたまでにございます」


炭がもうひとつ、灰の下で崩れ、パチリと火が跳ねた。目の前の影が遠ざかった。


「遅れて来て、ずいぶん大きく申す」


「陛下の治世は、どちらでございますか?」


曹丕から短い息が落ちた。高座に腰を下ろし、胡座をかいた。


「……そこまで申すなら、口先だけでは済まさぬ」


曹丕はそう言って、史の方を向き顎を上げた。史は木簡と筆を曹丕に手渡した。木の上に筆が走る音がした。


「面をあげろ」


私が顔を向けると、その木簡で私を指しながら、曹丕は言った。


「郭淮を領雍州刺史(りょうようしゅうしし)に除し、射陽亭侯(しゃようていこう)に封ず」


……昇進?


雍州を預かる権限と、亭侯の爵。罰ではなかった。


胸の布の上で、心臓が強く打った。私はすぐに両手をつき、顔を下げた。眉の間に皺が寄った。


「拝命……いたします」


広間へ戻ると、笙も鼓もさっきと変わらず鳴っていた。笑い声も、杯の触れ合う音も、そのままだった。


宴は夜が明けるまで続いた。明朝、宮門を出ると、成が迎えに来ていた。


私は官名の書かれた木簡を取り出し、成に投げ渡した。


成はそれを見て言葉をなくしていた。


「仕事を増やされましたが、左遷は免れました。早く長安に帰りましょう」


私はそう言って、成が持つ馬に跨った。


朝焼けが真新しい白壁に映り、洛陽は真っ赤に染まっていた。成と馬の吐く息だけが白いままだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。