第二十一話 徳のある世
冬の長安を発って三日、道は渭水に沿って東へ伸びていた。川面は鈍い茶色で、朝ごと岸に薄い氷を残した。
馬の鼻息は白く、手綱の金具は触れるたび指先の熱を奪った。荷駄の車輪が乾いた地を鳴らし、その音が、低い空の下を長くついてきた。
洛陽へ向かう潼関へ近づくにつれ、道は目に見えて細くなり、風が強くなった。荷車の覆い布が何度も跳ね、従者が紐を締め直していた。
関に近づくと、風を避けた荷馬車と兵が、塀に沿って列を成していた。
私は馬上で一度だけ腰を浮かせた。腿の付け根まで、鈍いだるさが降りていた。
潼関を抜けたのは、日が西へ傾きはじめたころだった。関中の内に溜まっていた冷気が、そこでほどけるように流れた。
鞍に体重をかけた瞬間、腹の底の力が抜けた。内側から重たい粘り気が滑り落ちた。
――来た。
馬をすぐには止めなかった。私は瞼に力を入れ、手綱を短く持ち直し、ゆっくり進んだ。後ろの牛車が追いついた辺りで、ようやく成を振り返った。
「少し休ませてください。牛車に入ります」
成はすぐ頭を下げ、従者たちへ声を飛ばした。私が牛車の中に入ると、成が入口の垂れ幕の前に立った。
冷えた指を下穿きの内へ差し入れた。湿りがあった。指先へぬるさが移った。短く息を吐き、灰を包んだ綿を押し当て、油紙を重ねた。下穿きの紐を強めに結んだ。
垂れ布の向こうにいる成に聞いた。
「洛陽まであとどれくらいですか? 慶賀は何日後ですか?」
成はこちらを向かず、そのまま答えた。
「洛陽まで馬で三日。慶賀は四日後です」
――二日休んで急いで二日。ゆっくり進んで四日。
今夜の宿までの里数、その次に馬を替える継站、役人が泊まる候舍、さらに先の傳舍――それらを頭の中で並べた。
内腿を拭いた濡れ布を見た。薄暗い中で、黒ぐろとしていた。
垂れ布から顔を出して、成に伝えた。
「今夜は近い宿を使いましょう。馬も牛も休ませてください」
成は何も聞かず、ただ深くうなずいた。
その夜、私は湯を二度替えさせ、火のそばで脚を折ったまま、出てくる血の量を見ていた。
翌朝、宿の室の前には、成が戸越しに立っていた。
「穂泉様、お体の調子はいかがでしょうか?」
「良くはありません」
「では、馬ではなく牛車にお乗りください。それでも急がせれば、間に合うかもしれません」
「いえ、今日は休みましょう」
「それでは間に――」
「良いのです」
私は成の言葉を遮った。立ち上がり、戸を開け、成に近づき小声で言った。
「良いのです、よく知らぬ男の祝いなど。……きっと、大丈夫です」
そう言って笑った。成は顔を歪めながら、笑顔を返してきた。
洛陽へ入ったのは四日後だった。もう陽が西へ傾いていた。城門の朱はまだ若く、扉の金具は夕日の中で硬く光っていた。
道の脇には、外したばかりの縄や板が壁へ立てかけられ、塗りたての札は、風を受けるたび木の匂いを返した。
宮城へ入ると、香の匂いが漂った。その下に、乾ききっていない漆の匂いがほんのり混じった。
広間へ近づくと、戸の向こうから笙と鼓が重なって聞こえた。酒の匂いが廊まで流れ、運び込まれる肴の湯気が灯に白く浮いた。私は襟を正しながら、ゆっくり歩いた。
中へ入れば灯で明るく、漆の膳と杯が横へ長く並んでいた。新しい幕の折り目はまだ硬く、酒を運ぶ小吏は、その広さに歩幅を合わせきれていなかった。
群臣の袖は色を重ね、杯が動くたび金具が鳴った。上座の曹丕は、白く乾いた顔で、すでに何人かの言葉を受けていた。末席へ出て膝をついた。
「……遅いな」
顔を上げると、曹丕の指はまだ杯の縁にかかっていた。目は動かなかった。
「郭淮、ただいま参りました」
「見れば分かる」
楽以外の音が止まった。袖の擦れる音が、両耳で聞こえた。
やがて侍臣が一人寄り、私は次の間へ引かれた。
隔ての戸が閉まると、楽の音は遠のいた。室内には炭の熱が残り、木簡を広げた几案の木肌が灯に白く返っていた。
曹丕は高座の脇に立って、私を見ていた。私は額を床へつけた。
「かつて、夏朝王が諸侯を塗山に集めたとき、防風氏は遅参して誅された」
声が反響した。私は額をつけたまま、続く言葉を待った。
「この天下まとまっての慶事に遅参とは。その理由を申せ」
私は一度だけ息を吸った。
「ただ道を見ておりました」
「何だと?」
火鉢の中で炭がひとつ、灰の下で崩れた。
「行き交う人も馬も牛も、荷物でさえも、来たる太平を望む顔をしておりました」
「……ほう」
曹丕の声の調子が、わずかに変わった。
「これも陛下の人徳と仁義のなせることと存じます」
「はっは、媚びるか。余には通用せぬ」
衣の裾がわずかに鳴り、曹丕が高座を降りた。目の前に曹丕の足と頭の影が映っていた。私は頭を上げなかった。
「聞くところでは、五帝の時代はまず徳によって民を導きました。夏の王朝では、政治が衰えた後に、徳ではなく刑罰で人を治めました」
「おぬし、余に講釈するか?」
「徳ある陛下の治める世では、防風氏のような誅罰を受けることはないでしょう。それを確かめたまでにございます」
炭がもうひとつ、灰の下で崩れ、パチリと火が跳ねた。目の前の影が遠ざかった。
「遅れて来て、ずいぶん大きく申す」
「陛下の治世は、どちらでございますか?」
曹丕から短い息が落ちた。高座に腰を下ろし、胡座をかいた。
「……そこまで申すなら、口先だけでは済まさぬ」
曹丕はそう言って、史の方を向き顎を上げた。史は木簡と筆を曹丕に手渡した。木の上に筆が走る音がした。
「面をあげろ」
私が顔を向けると、その木簡で私を指しながら、曹丕は言った。
「郭淮を領雍州刺史に除し、射陽亭侯に封ず」
……昇進?
雍州を預かる権限と、亭侯の爵。罰ではなかった。
胸の布の上で、心臓が強く打った。私はすぐに両手をつき、顔を下げた。眉の間に皺が寄った。
「拝命……いたします」
広間へ戻ると、笙も鼓もさっきと変わらず鳴っていた。笑い声も、杯の触れ合う音も、そのままだった。
宴は夜が明けるまで続いた。明朝、宮門を出ると、成が迎えに来ていた。
私は官名の書かれた木簡を取り出し、成に投げ渡した。
成はそれを見て言葉をなくしていた。
「仕事を増やされましたが、左遷は免れました。早く長安に帰りましょう」
私はそう言って、成が持つ馬に跨った。
朝焼けが真新しい白壁に映り、洛陽は真っ赤に染まっていた。成と馬の吐く息だけが白いままだった。




